1月17日(日)ヤコブの手紙 1章2節
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜び

と思いなさい。」

私たちは、試練や困難、問題が許されると、心配したり恐れたりして

しまうものですが、この聖書個所では、それをこの上もない喜びと思い

なさいと
語っています。

神様が、私たちに与えられる試練は、私たちの益のために、私たちの信仰の

立て上げのためにあえて、許されるのです。

ですから、信仰の対応をなし、すべての事について感謝し、神様の言われて

いることに聞き従って行きましょう。

1月10日(日)ローマ人への手紙 8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

「すべての事について感謝しなさい。」

神によって救われ、神の子どもとしての特権が与えられ、神を愛し、従う

者には、神様がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。

ですから、神様の言われていることに聞き従い、みこころの道を全うして

行きましょう。

すべてが益となるのを見ていくでしょう。 

1月3日(日)ローマ人への手紙 8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

神を愛するとは、神の命令を守ることですと、書かれているとおり、神の

ことばに聞き従うなら、全知全能の神様が、すべてのことを働かせて

益としてくださるのです。

ですから、問題が許されたとき、すべての事について感謝し、従うとき、

マイナスと思われたことの後ろにある、素晴らしい神様のご計画が現わ

されるのです。

 12月27日(日)ヨハネの手紙 第一 5章4節
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。

私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」

私たちが、神様に信頼して、神様のみことばに従って信仰の歩みをして

いくなら、どのような状況にあっても、神様によって勝利を見ていくのです。

ですから、祈ること、聞き従うこと、すべてのことに感謝しつつ、信仰を

働かせて、信仰の告白をして、信仰の歩みを強めていきましょう。

 

12月20日(日)ルカの福音書 2章10~11節
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民

全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの

町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方

こそ主キリスト・イエスです。」

先日、ハリウッド映画を見ていましたら、「聖書には、クリスマスの日に

キリストが生まれたとは書いていない。」と、主役の俳優が言っていました。

そのとおりで、イスラエルの冬は厳しい寒さですから、羊飼いたちが、

野宿で夜番をして羊の群れを見ることはありません。

ですから、私たちのTLEA教会は、クリスマスを祝うということはしていません。

神の御子イエス・キリストが、人としてこの世に来てくださり、救い主

として、私たちのすべての罪を負って十字架で死んでくださり、私たち

に救いの道を開いてくださったことは、素晴らしい喜びです。

イエス・キリストを信じる信仰によって、恵みによって、値なしに、神の

み前に、すべての罪が赦され救われるのです。

12月13日(日)ヨハネの手紙 第一 5章4節
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。

私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」

年度のみことばですので、しっかりと刻んでおいてください。

「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」と、あるように、

勝利のポイントは、信仰にあります。

信仰のポイントは、聞き従いにありますから、祈ること、聞き従うこと、

感謝することを徹底して行きましょう。

不信仰は、神様の働きを止めてしまいますから、いつも信仰に立って、

信仰の告白をして、進んでいきましょう。

神を信じ、神の約束に立って信仰の歩みをし、信仰による勝利を体験して

行きましょう。

 11月29日(日)ヨハネの手紙 第一 5章4節
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。

私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」

年度のみことばですので、しっかりと刻んでおいてください。

「神によって生まれた者はみな」、とありますが、イエス・キリストを

信じたクリスチャンは、みな、世に勝つとあります。

「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」と、あるように、

勝利のポイントは信仰にあります。

信仰のポイントは、聞き従いにありますから、祈ること、聞き従うこと、

感謝することを強めていきましょう。

神を信じ、神の約束に立って信仰の歩みをし、信仰による勝利を体験して

行きましょう。

11月22日(日)ヨハネの手紙 第一 5章4節
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。

私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」

年度のみことばですので、しっかりと刻んでおいてください。

「神によって生まれた者はみな」、とありますが、イエス・キリストを

信じ
新生したクリスチャンは、みな、世に勝つとあります。

「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」と、あるように、

勝利のポイントは信仰にあります。

ですから、神を信じ、神の約束に立って信仰の歩みをし、信仰による

勝利を体験して行きましょう。 

11月15日(日)ヨハネの手紙 第一 5章4節
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。

私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」

年度のみことばですので、しっかりと刻んでおいてください。

神によって生まれた者とは、イエスキリストを信じ、神の子どもされた

者をさします。

信仰こそ世に打ち勝った勝利とありますから、信仰に立つときに、神に

よる勝利を見るのです。

信仰を用いていくと、神様がすべての事を働かせて、勝利へと導いて

くださいます。

ですから、すべてにおいて、信仰を働かせなければなりません。

 11月8日(日)ヨハネの手紙 第一 5章4節
「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。

私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」

年度のみことばですので、しっかりと刻んでおいてください。

神によって生まれた者とは、イエスキリストを信じ、神の子どもと

された
者をさします。

信仰を用いることが、勝利だと言っています。

ですから、すべてにおいて、信仰を働かせなければなりません。

第一には、祈ること、第二には、聞き従うこと、第三には、すべての

事について感謝することです。

信仰によって、神にある勝利を体験して行きましょう。
11月1日(日)士師記 6章14節

すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、

イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすの

ではないか。」

ヨシュアに引き入れられ、ヨルダン川を渡り、約束のカナンの地に

入ったイスラエルの民は、定住するに従い、偶像礼拝に陥ったのです。

神様は、イスラエルにさばきを行われ、ミデヤン人にイスラエルを攻め

させたのです。

困難になると、イスラエルは神に助けを求め、神様は御使いをギデオン

のところに遣わされたのです。

ギデオンは、弱く、臆病でしたが、御使いから「勇士よ。」と呼ばれ、

信仰で勇士として立ったのです。

そして、神様から使命が与えられ、300人で、13万5千人の敵に

勝利したのです。

10月25日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝

しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたの望んで

おられることです。」

いつも喜んではおられない、すべての事について感謝できないような試練や

困難が許されるかもしれません。

しかし、神様は、私たちに、いつも喜ぶように、絶えず祈るように、すべて

の事について感謝するように命じておられます。

ですから、神様の言われるように、試練や困難の中にあっても、信仰をもって

受け取り、みことばに従って行くなら、神様がすべての事を働かせて益と

してくださるのです。

不信仰によって、神様の働きを止めないようにして行きましょう。

10月18日(日)伝道者の書 3章11節
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に

永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わり

まで見きわめることができない。」

私たちは、主の赦しの中にあって、さまざまな試練や困難をとおされる

ことがありますが、主がなされることは、すべて時にかなって美しいのです。

神様は、私たち一人一人を愛してくださっていますから、主にある最善の

時に、問題の解決を見、神様にある勝利を体験していくのです。

ですから、いつも喜び、すべてに感謝して、主の最善を見て行きましょう。

10月11日(日)歴代誌 第二 20章15節、17節
「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」

「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずに

いよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」

ヨシャパテ王の時代、アモン人、モアブ人、セイル山の人々が連合して、

ユダを攻めて来たのです。

しかし、ユダには、これに対抗する力がなく、全滅の危機を前に、人々

は、男も女も、子供も主の前に出て、助けを求めたのです。

この戦いは主の戦いであると語られたように、主が戦われ、圧倒的な勝利を

見たのです。

本格的な戦いに入り、それぞれにも戦いが赦されていきますが、神のことば

をしっかり握り、神の勝利を見て行きましょう。 

10月4日(日)詩篇 122篇6~7節
「エルサレムの平和のために祈れ。「お前を愛する人々が栄えるように。

お前の城壁のうちには、平和があるように。お前の宮殿のうちには、繁栄

があるように。」

エルサレムの平和のために祈るように、神様が、私たちに命じておられる

ことです。

中東情勢は、アラブ諸国とイラン、イスラエルとイラン及びアラブ諸国の

間には、緊張があります。

また、イスラエル国内には、パレスチナ問題があり、激しい敵対関係にも

なっています。

ですから、私たちは、日々エルサレムの平和のために祈る必要があります。

そして、神様は、エルサレムの平和のために祈ることをとおして、私たち

に繁栄と祝福を約束してくださっています。

9月27日(日)ヤコブの手紙 1章2~4節
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない

喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、

あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。

そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、

完全な者となります。」

ここでは、さまざまな試練が赦されたら、これ以上の喜びはないと思い、

いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する、信仰の対応を

しなさいと語っています。

そして、試練の後ろには素晴らしい神様のご計画があり、忍耐を完全に

働かせていくならば、成長を遂げた完全な者になると語っています。

9月20日(日)エレミヤ書 29章11節
「わたしはあなたがたに立てている計画をよく知っているからだ。

―主の御告げ」―それはわざわいではなくて、平安を与える計画で

あり、あなたがたに将来と希望をあたえるためのものだ。」

預言者エレミヤの時代、イスラエルは神の御前に偶像礼拝という、

大きなそむきの罪を犯し続けていたのです。

神様は、そのようなイスラエルを、敵であるバビロンを用いて、

エルサレムを攻撃させ、イスラエルの民を捕囚として敵の地に、

追いやったのです。

彼らは、敵の地で捕囚として、苦しい生活を余儀なくさせられて、

彼らは
悔い改めて、自分たちの神である、まことの神を求め、まことの

神に立ち返り、まことの神様だけを礼拝したのです。

神様の最善のご計画が現わされたのです。

9月13日(日)コロサイ人への手紙 3章16節
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を

尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝

にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」とあり

ますが、私たちの信仰の土台は、神のことばにあります。

聖書は、誤りなき神のことばですから、神のことばをしっかり受け取り、

神のことばに信頼して、信仰の歩みをしていきましょう。

そのとき、神のことばの真実を体験し、神のご愛を、さらに深く多く、

大きく知るようになります。

また、神様は、私たちの心からの感謝と賛美を喜ばれます。

感謝を強め、賛美を喜んでささげて行きましょう。 

9月6日(日)ピリピ人への手紙 4章19節
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富を

もって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」

全知全能の神様は、私たちの必要を、すべてご存知です。

そして、私たちに信仰を用いて、熱心に神様に、祈り求めるように

教えてくださっています。

経済的な問題で、苦境に陥っている方があおられるかもしれませんが、

そういうときこそ、神様のみ前に出て、諦めることなく、祈って求めて

いきましょう。

神様は、必ず祈りに答えてくださり、必要のすべてを満たしてくださいます。

8月30日(日)ピリピ人への手紙 3章20節
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリスト

が救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」

人は、生まれたときに国籍があります。日本人に生まれれば、国籍は

日本になります。

しかし、イエス・キリストを信じるならば、神によって新しく生まれた

者とされ、国籍は天にあり、天国人としての生活が始まります。

天国人として、ふさわしい信仰の歩みをして、主が再臨されるのを

「主よ。来てください」待ち望んでいきましょう。


8月23日(日)テサロニケ人への手紙 第一 2章13節

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に

感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、

御霊による聖めと、

真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びに

なったのです。」

神様は、私たちのすべてを知っておられ、そのような罪人である

私たち一人一人を選び出し、真実に愛してくださっています。

私たちは、何かができる、何かを知っている、何かを持っているなどの

理由でなく、ただ神様のあわれみと恵みによって、イエス・キリストを

信じる信仰によって救われたのです。

イエス・キリストは、私たちのすべての罪とがを負って、十字架に

かかり死んでさり、3日目によみがえられて、私たちの主となって

くださっています。
 

8月16日(日)マタイの福音書 7章7~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば

見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、

求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

言語の意味合いは、求め続けなさいと、捜し続けなさい。たたき続け

なさいと、継続して祈り求めることを、勧めてています。

イエス様は、3つのパンのたとえで、あくまで頼み続けるならば必要な

ものを与えるでしょう。

不正な裁判官とやもめのたとえでは、いつでも祈るべきであり、失望して

はならないと語られています。

私たちに、熱心に、あきらめることなく、忍耐をもって、あくまで頼み

続けなさいと、教えておられます。
 

8月9日(日)テサロニケ人への手紙 5章16~16節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、

感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに

望んでおられることです。」

いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝せよと、命令形で

書かれています。

私たちが、どのような状況に置かれたとしても、不平不満、つぶやき、

怒りなどではなく、神様のことばに従うなら、全知全能の主がすべての

事を働かせて益としてくださるのです。

ですから、信仰に堅く立って、信仰の歩みをしていきましょう。

神様は、必ず最善の結果を現してくださいます。

8月2日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと

願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、
人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と

思いをキリスト・
イエスにあって守ってくれます。」

ピリピ人への手紙は、喜びの書簡と呼ばれ、私たちに、いつも主に

あって喜ぶことを勧めています。

私たちが、どのような状況の中でも、信仰によっ
喜ぶことを実践して

いくなら、主にある勝利を取って行きます。

私たちは、思い煩ったり、心配したり、悩んだり、恐れやすい者なのです。

しかし、神様に信頼し、感謝をしていくならば、イエス様がすべてを働か

せて益としてくださり、私たちを最後まで守ってくださるのです。

7月26日(日)ルカの福音書 11章9~10節

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。

捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれ

ます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者

には開かれます。」

イエス様は、パンを3つ借りる男のたとえをもって、忍耐もって、あくまで

頼み続けるように語っておられます。

求めることは信仰を用いることですから、神様は喜ばれ、その祈りの成就を

なそうとしておられます。

しかし、数回祈って、かなえられないと思って諦めてしまうのではなく、

失望することなく、継続して祈り続けるならば、必ずその祈りの答えを見る

ことでしょう。
 

7月19日(日)ヨハネの手紙 第一 5章3~4節
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。なぜなら、神によって

生まれたものはみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、

世に打ち勝った勝利です。」

イエス・キリストを信じ救われた者はみな、神によって生まれた者なのです。

神様が私たちを愛してくださったように、私たちも神様を愛し、神様の

命令に聞き従って行く必要があります。

そして、神様のことばに信頼し信仰を用いていくならば、戦いの中で、

世に対して打ち勝ち、勝利を得ていくのです。

祈り聞き従うこと、感謝すること、喜ぶこと、信仰の告白をしていくことは、

信仰を用いる事なのです。

そして、信仰を通して働く、神様のみわざを体験して行きましょう。 

7月12日(日)イザヤ書 41章10節
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしが

あなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの

義の右の手であなたを守る」

私たちは、問題、困難、試練に会うと、どうしても恐れたり、たじろい

だり、思い煩ったりしてしまう者なのです。

しかし、私たちには、全知全能の神様がいつもともにいてくださり、

私たちを強め、助けてくださり、勝利の右の手で守ってくださるのです。

イエス・キリストを信じ救われた者には、神様が豊かな恵みで満たし、

祝福を与えようとしておられるのです。

ですから、どのような状況にあったとしても、神様と神様のことばに信頼し、

聞き従って行きましょう。

必ず、神様の最善を見ていくのです。

7月5日(日)コリント人への手紙 第一 10章13節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は

真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせる

ことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の

道も
備えてくださいます。」

私たちは、試練に会うと、なぜ、自分だけこのような目に会わなければ

なら
ないかと思ってしまうのです。

そして、周りを責めたり、自分を責めたりしてしまうことが多いのです。

しかし、多くの方が同じような試練を経験しますが、神様は真実な方です

から、私たちを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。

むしろ、試練を通して、私たちに乗信仰を立て上げ、脱出の道、解決の道を

開いてくださるのです。

神様に信頼し、神のことばに立って、信仰の対応をしていきましょう。 

6月28日(日)ヤコブの手紙 1章2~4節
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない

喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じることを、あなたがたは

知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、

あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者と

なります。」

私たちは、問題、困難、試練には、なるべく会いたくないと考えます。

しかし、この聖書個所では、さまざまな試練に会うときは、この上もない

喜びと思いなさいと、私たちに言っています。

なぜなら、私たちは試練によって、信仰に必要な忍耐を養われ、忍耐を

通して受けるべき祝福があるのです。

神様は、試練を通して、私たちを立て上げ、完全な者へと導いてくださる

のです。

12月8日(日)テサロニケ人への手紙 第一 1章4~6節
神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることを

私たちは知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、

ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信によったからです。」

私たちは、受ける資格がない者にもかかわらず、神によって選ばれた者であり

神のご計画によって召された者なのです。

私たちは、神様の恵みとあわれみによって、神に愛されている者であり、神様は

私たちを決して見捨てられませんし、私たちを最善に導き、私たちに良きことを

成してくださるお方なのです。

ですから、私たちは神様に信頼し、神様の御声に聞き従い、神のことばに堅く

立って、信仰の歩みを全うして行きましょう。

12月1日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです
。」

このみことばは、いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、すべての事につて感謝する

ように、神様が私たちに命じておられることです。

信仰生活において、日常生活においても、さまざまな状況が許され、時には、

試練や困難が連続して起こり、神様がおられるならなぜこのような事が、

というようなことがあるかもしれません。

しかし、私たちが神様の語られることに従うなら、神様がすべてのことを働かせて

益としてくださるのです。

神様は、価値のない私たちを選び出し、愛してくださって、神の子どもとされる

特権を与え、天国人としての道を開いてくださいました。

私たちは、神様によって生かされ、導かれる素晴らしい生活が与えられているのです。

11月24日(日)歴代誌 第二 20章15,17節
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」

「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って

動かずにいよ。
あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」

このみことばは、今年度、神様から教会に与えられた、神のことばです。

ヨシャパテ王の時代、モアブ人、アモン人、セイル山の人々が連合し大軍で

ユダを攻めてきました。

敵の大軍は、眼前まで進軍してきており、ユダの人たちはこれに立ち向かう

すべがなかったのです。

ヨシャパテ王はじめユダの人々は断食し、男も女も子供も出てきて、神殿の

前の広場で必死になって、神の助けを求めて祈ったのです。

その祈りに答えられて、この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いで

あるからと語られ、すでに勝利が約束されたのです。

私たちは神様のことばに信頼し、主のみこころから動くことなく、堅く立って、

主の時を待ち望んで行きましょう。

11月17日(日)歴代誌 第二 20章15,17節
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」

「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。

あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」

このみことばは、今年度、神様から教会に与えられた、神のことばです。

ヨシャパテ王はじめユダの人々は、敵の大軍を恐れ、気落ちしていましたが、

彼らは断食し、男も女も子供も出てきて、神殿の前の広場で必死になって神の

助けを求めて祈ったのです。

その祈りに答えられて、この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いで

あるからと語られ、すでに勝利が約束されたのです。

神様は、全知全能の主であられますから、完全に敵を殲滅させ圧倒的な勝利が

現わされたのです。

11月10日(日)歴代誌 第二 20章15,17節
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」

「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。

あなたがたとともにいる主の救いを見よ。」

このみことばは、今年度、神様から教会に与えられた、みことばです。

この預言のことばをもって、ヨシャパテ王はじめユダの人々に、この戦いは

あなたがたの戦いではなく、神の戦いであるからと語られ、すでに霊的な勝利

が約束されているのです。

そして、神が命じられることばをもって、戦いに出る様に語り、実際の戦い

においては、神がすべてを支配し、敵を完全に滅ぼし、圧倒的な勝利が現わ

されたのです。

11月3日(日)エペソ人への手紙 1章2節
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを

祝福してくださいました。」

私たちは、イエスキリストを信じる信仰によって、神の子どもとされ、

天にあるすべての霊的祝福とともに、実際的な祝福を、既に与えられて

いるのです。

それは、神様が私たちを選び、私たちを愛してくださり、神様がすべての

事を働かせて益として最善をしてくださっているのです。

ですから、どのような時でも、神様に信頼し、神様のことばの約束を

握って、聞き従って行きましょう。

かならず、神様にある勝利を見ていくのです。

10月27日(日)へブル人への手紙 11章13節
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れる

ことはありませんせんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人で

あり寄留者であることを告白していたのです。」

私たちは、イエスキリストを信じる信仰によって、すべての罪が赦され、救われて、

神の子どもとされる特権が与えられ、天国が約束されています。

ですから、神さの御声に聞き従い、この地上での生活において、信仰の歩みをして

いく必要があります。

そして、私たちの地上での生活は、どのように長くとも100歳まで生きられない

ですが、この、地上での生活が終わった時、私たちは約束通り天に召され、

神とともに、永遠に生きることができるのです。

ですから、地上のことだけに目を留めるのではなく、天に宝を積む歩みをして

行きましょう。

私たちは、地上では旅人であり、寄留者なのです。

10月20日(日)イザヤ書 41章10節
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの

神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、

あなたを守る。」

すべてを知っておられ、すべてをおできになる不可能のない神様が、

私たちを選び、私たちを愛してくださっています。

私たちは、神様に愛される資格などない存在ですが、そんな、私たちと

いつもともにおられ、私たちを強め、私たちを助け、私たちを支え、

守ってくださるお方なのです。

どんな時にも、神様に感謝し、御名を呼び求めていきましょう。

神様は、必ず最善への道へと導いてくださいます。

10月13日(日)詩編 23篇1~4節
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に

伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、

御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の影の谷を歩くことが

あっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」

ダビデは、神様のことを、羊飼いにたとえて語っています。

羊飼いは、羊を名前を呼んで可愛がり、荒野を安全な道を選んで導き、豊かな

牧草地へ連れて行き食べさせ、必要な水を与えて育てるのです。

時には、クマなどの獰猛な動物と闘って、羊を守ることがあります。

ですから、羊飼いは、いつも羊といっしょにいて、守り、助け、導いて、成長

することを喜びとしているのです。

神様も、いつも私たちとともにおられ、私たちを愛してくださって、守り、導いて

下さるお方なのです。

10月6日(日)詩編 122篇章6~7節
「エルサレムの平和のために祈れ。おまえを愛する人々が栄えるように。

おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、

繁栄があるように。」

作者は、知人友人たちに、エルサレムの神殿に行って、礼拝をささげに

行こうと誘われたとき、心から喜んだのです。

神様は、エルサレムの平和のために祈れと命じておられますが、エルサレムは

歴史的にも多くの戦禍にまみれ、現在でも不安定な中東情勢の中で、

平和のために祈ることは、重要なことです。

ですから、日々、エルサレムの平和のために祈り続け、神様の語っておられる

ことに、忠実に聞き従って行きましょう。

9月29日(日)ローマ人への手紙 8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

ヨハネの手紙には、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は

重荷とはなりません」とあります。

ですから、私たちは、神様が言われたことに聞き従い、みこころとする歩みを

していく必要があります。

たとえば、「すべてのことについて感謝しなさい。」と命じておられますから、

私たちはそのことばに従って、良いと思われることであっても、悪いと思われる

ことであっても、神様に選ばれた者であること、神様に愛されている者として

受け取り、感謝していきましょう。

全知能の神さまが、全てを働かせて益としてくださるのです。

 

9月22日(日)ヨハネの福音書 12章24節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に

落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、

豊かな実を結びます。」

イエス様は、ご自分を一粒の麦としてたとえられ、私たちのすべての罪を

負われ、ご自身を捨てられて、十字架にまで従われ死んでくださったのです。

しかし、父なる神は、イエス様を捨て置かず、よみがえらせ天の神の右の

座に着座させられたのです。

イエス様が、十字架にかかり死んで下さった、その大きなご愛ゆえに、

私たちに救いの道を開き、多くの実を結ばれたのです。
 

9月15日(日)ヨハネの福音書 3章16節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを

持つためである。」

私たちは、ただ恵みによって、神に選ばれた者であり、神に愛されている

者であり、救いに入れてくださり、永遠のいのちが与えられています。

イエスキリストを信じる信仰によって、私たちは永遠の滅びから守られ、

永遠のいのちが約束されています。

神様は、受ける価値のない私たちを愛してくださり、永遠のいのちを与えて

くださったのです。

私たちも神様を愛し、神に聞き従って行きましょう。

9月8日(日)ヨハネの福音書 3章16節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを
持つためである。」

私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって救われ、すべての罪が

赦されだけでなく、神様は、私たちを、全く罪を犯さなかった者として、

見てくださいます。

それは、イエスキリストが私たちのすべての罪を負い、十字架の上で

痛みの極み、苦しみの極みを受けて死んでくださったからです。

すでに、私たちの贖いの代価が、イエス・キリストの十字架によって

支払われているのです。

それほどまでにして、受ける価値のない私たちを愛してくださり、永遠の

いのちを与えてくださったのです。 

8月11日(日)ヤコブの手紙 1章1~4節
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない

喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、

あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせない。

そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、

完全な者となります。」

私たちに、さまざまな試練が許されますが、それを、信仰によって、最高の

喜びとして受け取りなさいと勧めています。

それは、試されると忍耐が生じると言っていますが、信仰の歩みの中では、

忍耐して神の時を待ち望む必要があるからです。

神様は、私たちの立て上げのために敢えて試練を許され、その試練は、

私たちを成長させ、主にあって完全な者とされていくのです。

8月4日(日)使徒の働き 16章23~26節
「この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ讃美の歌を歌っていると、

ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、

獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が

解けてしまった。

パウロの、第2次の宣教の働きの中で、イエスの御霊に導かれ、トロアスから

船に乗り、マケドニアのピリピまで行ったのです。

そこで、初めに、紫布を商うルデヤという女が救われ、次に、強い占いの霊に

取りつかれた若い女奴隷を解放、救いへと導かれました。

女奴隷の占いによって、大儲けをしていた主人たちは、儲けが出来なくなり、

パウロとシラスを役人に訴え、捕らえさせたのです。

パウロとシラスは、無実の罪にもかかわらず、さんざん鞭で打たれ、足かせを

掛けられて奥の牢に入れられてしまったのです。

彼らは、痛みの中で、不平や不満、怒りなどせず、神に感謝の祈りをしつつ

讃美をしていたのです。

その時、奇跡が起こり全員の鎖が解けて、驚いた看守とその家族が、イエス様を

信じて救われたのです。

いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝して、信仰の対応をしていき

ましょう。

7月28日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。何も思い

煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

なたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての

考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって

守ってくれます。」

神様は、私たちが神様に信頼し、神のことばに立って、約束に立って従うことを

望んでおられます。

そして、いつでもどんな時でも、神様による、平安と喜びに満たされている

ことを願っておられます。

ですから、主にあって喜ぶこと、何も思い煩わないで、すべての事について

感謝し、信仰の対応をしていきましょう。 

7月21日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、

感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んで

おられることです。」

いつも喜んでばかりおられないことや、なぜこのようなことが次々と起きて

感謝などできる状態ではないと、思われる方があるかもしれません。

しかし、神様は、いつも喜ぶこと、絶えず祷ること、すべての事について

感謝することを命じておられるのです。

ですから、私たちの、感情思索では受け入られないことであっても、信仰で

喜ぶこと、祈ること、すべの事に感謝することを選び取り、信仰の対応を14

していきましょう。

神様は、信仰に答えてくださり、最善がなされていくのです。

7月14日(日)マルコの福音書 11章22~24節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。

だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、

ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと

信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

たとえ、どのように大きく高くそびえる山のような、問題、困難であっても、

神様が解決してくださる、と信じて、告白して行けばそのとおりになっていきます。

ですから、すべに受けたという信仰をもって告白し、祈り聞き従い信仰の行動を

していきましょう。

神様は、不可能のないお方であり、私たちを愛してくださり、素晴らしいことを

なしてくださいます。

全地全能の神様に、希望があります。

7月7日(日)マルコの福音書 4章30~32節
「また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。

何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に

蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが

蒔かれると、成長してどんな野菜より大きくなり、大きな枝を張り、

その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」」

イエス様は、天の御国について、からし種のたとえをもって話されました。

からし種は、直径1ミリ、重さは1ミリグラムと、吹けば飛んでいくような

小さな種ですが、それが蒔かれ成長していくと、大きなものでは高さが

3メートルにも達するそうです。

私たちが、どのように小さなことと思われることでも、福音の種をまけば、

それは、大きく成長して拡大していきます。

神様の言われることに聞き従い、みこころとする宣教の働きの種を、

蒔いて行きましょう。

6月30日(日)ヨハネの福音書 15章1~8節
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で

実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと

多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

イエス様はまことのぶどうの木であり、父なる神は農夫ですとたとえで話され

ています。

そして、多くの実を結ぶために刈り込みをされるのですが、それは、試練で

あったり問題であったりするのです。

刈り込みを通して、不必要な枝が切り取られ樹形が整えられ、必要な枝に養分が

行き、豊かな実を結ぶものになっていくのです。

私たちは、ぶどうの木であるイエス様と教会にしっかりつながり、枝として

養分を受けながら成長していくのです。

私たちは、イエス様から離れては何もできませんし、助けも、守りも受ける

ことができないのです。

6月23日(日)マタイの福音書 20章1~14節
「こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者

たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を

払ってやりなさい。』そこで、五時ごろ雇われた者たちが来て、それぞれ

一デナリずつもらった。」

天の御国のことを、ぶどう園の主人のたとえをもって。語られています。

ぶどうの収穫期が来て、多くの労務者を必要としており、主人は朝早く市場に

行って、一日一デナリの約束をして、ぶどう園に送るのです。

そして、九時、十二時、三時、そして、五時に雇われた人もありました。

おそらく、それぞれの時間に雇われた人たちは、働いた時間を計算して、

これくらいは賃金を貰えるだろうと思ったことでしょう。

夕がたになって、主人は監督を呼び、最後に来て一時間しか働かなかった人

たちから、一デナリという破格の賃金を支払ったのです。

朝、一番に雇われて働いた人も、同じ一デナリでした。

矛盾しているように思われますが、私たちは最後に来て、一時間しか働かない

者ですが、神の恵みによって、神の愛によって祝福されるのです。

6月16日(日)哀歌 3章22~24節
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きない

からだ、それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける

分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。」

哀歌は、預言者エレミヤが書いたと言われています。

エレミヤは、神からのことばを受け、人々に語っていたのですが、人々は神からの

ことばとは信じないで、エレミヤを殺そうとしたりしたのです。

ユダヤの民は、自分たちの神に反逆して、その罪によって、神はユダヤの民を

滅ぼそうとして、バビロンに攻めさせたのでした。

3回目の捕囚で、エルサレムは神殿、城壁、民の家々を破壊しつくされてしまったのです。

しかし、いつくしみ深く、あわれみと恵み豊かな神は、ユダヤ人たちの反逆にあっても、

ご自分の民を愛し、完全には滅ぼされなかったのです。

そして、約束通り70年がたった後、彼らは再びエルサレムに帰還するのです。

6月9日(日)使徒の働き 2章1~8節
「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた

家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの

上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる

とおりに、他国のことばで話し出した。」

五旬節「ペンテコステ」の日に、みなが集まっているところに、イエス様が

約束されたように、聖霊が降臨され、人々は聖霊に満たされたのです。

聖霊が一人一人のうちにとどまり、一人一人が聖霊に満たされるという、2つの

出来事が起きたのです。

この時から、聖霊時代、教会時代がスタートし、御霊の賜物が開かれ、人々は

聖霊の力を受けて、力強く宣教の働きに出て行き、全世界に福音が伝わって

行ったのです。

6月2日(日)詩編 103篇1~5節
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。

聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。主の良く

してくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、

あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、

恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。」

作者のダビデは、いつも主との交わりを成し、主を真におそれ、心から礼拝し

讃美をささげていました。

ダビデは、多くの苦難、困難、試練を受けましたが、神様に忠実に聞き従う中で、

助けを受け、守りを受け、生ける神の愛と真実をいつも体験していたのです。

また、自分の罪深さや弱さを知っていましたから、いつもへりくだって神様の

御前に出て、悔い改め祈り信仰の歩みをしたのです。

5月26日(日)イザヤ書 41章10節
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの

神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、

あなたを守る。」

神様の本質は愛であり、神様はいつも私たちとともにいてくださり、私たちを

強め、助け、守ってくださるお方です。

神様は、私たちを決して見捨てられませんし、見離すこともなさいません。

神様は、私たちに最善の道を用意してくださっています。

ですから、私たちも神様を愛し、絶えず神様のもとに行き、神様と絶えず真実な

交わりを成し、神様に聞き従っていきましょう。

5月19日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、

感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに

望んでおられることです。」

 私たちの日常生活においても、信仰生活においても、いつも喜んで

ばかりおられないことや、感謝できないことが起こります。

また、神様は敢えて試練を許され、私たちを試さることがあります。

しかし、神様は私たちに、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事につい

て感謝せよと命じておられます。

ですから、私たちの感情や思索でとらえるのではなく、神様の語られる

みことばに聞き従って行くなら、どんなに最悪と思えることも、神様が

すべての事を働かせて益としてくださるのです。

神様と神様のことばに信頼し、約束に立って信仰の歩みをしていきましょう。 

5月12日(日)ヨハネの黙示録 1章1~3節
「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれている

ことを心に留める者は幸いである。時が近づいているからである。」

 ヨハネの黙示録は、迫害の中にあって、イエス様の弟子であった使徒ヨハネが、

パトモス島へ流された時に、神様からの黙示を受けたのです。

神様からイエス様が受け、イエス様が御使いを遣わしてヨハネに告げたのです。

それは、終わりの時代にあって、これから起こることを私たちに教え、絶えず

目を覚まして、その、備えをするように語っていてくださるのです。

ですから、黙示録に書かれていることをしっかり心にとめ、迫害や再臨に備え

助けを受け、それを、待ち望んで行きましょう。

5月5日(日)コリント人への手紙 第一 10章13節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は

真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練を会わせることは

なさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて

くださいます。」

 神様は、敢えて私たちに試練を許されることがあります。それは、私たちを

悩ませ苦しめるためではなく、私たちの益のために、私たちの信仰を立て上げる

ために許されるのです。

また、神様は、私たちが耐えられないほどの試練を与えられませんし、そればかりか、

耐えることができるように解決の道を用意してくださっています。

ですから、神様に信頼し、神のことばをしっかり握り聞き従って行きましょう。
4月28日(日)
ヤコブの手紙 5章15~16節
「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせて

くださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦され

ます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈り

なさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」

この聖書箇所は、私たち救われたクリスチャンが、信仰の祈りをしていくなら、

病人はいやされるとあります。

私たちがどのような罪人であったとしても、悔い改めてイエス・キリストを信じ

るなら、すべての罪が赦され、義とされるのです。

ですから、私たちが心から願い、祈り求めるなら、祈りを通して神様が働かれ、

大きな力となり、奇跡を見、いやしを見、神様が栄光を現わされます。

病人がおられるならば、信仰を持って祈り続けていきましょう。 

4月21日(日)ヤコブの手紙 1章1~4節
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、この上もない喜びと思いなさい。

信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」

ヤコブの手紙は、イエス様の兄弟ヤコブが書いた手紙ですが、ヤコブは当初

イエス様が救い主、メシアだとは信じていませんでした。

しかし、イエス様が十字架にかかられ死なれ、墓に葬られましたが、3日目に

よみがえられたことから信じて、クリスチャンになり教会の重鎮として活躍をしました。

ここでは、さまざまな試練に会うときは、最高の喜びと思いなさいと勧めています。

それは、信仰の忍耐を通して、私たちを立て上げて神様のみこころにかなう器と

しておられるのです。

試練に対して感謝と祈りを強め、信仰の対応をなし勝利していきましょう。

4月14日(日)ルカの福音書 22章39~46節
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、

わたしの願いではなく、みこころの通りにして下さい。」

イエス様は、最後の晩餐を終えられ、弟子たちとともにオリーブ山に行かれ、

そこで祈られました。

イエス様は、ご自身が十字架にかかられ死なれること、それが、いかに残酷で

あり過酷な刑であることを知っておられ、父なる神に祈られたのです。

「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように

地に落ちた。」

イエス様は、必死になられ、心から願って祈られた様子がよくわかります。

イエス様は、この祈りを通して十字架におけるすべての事柄を、お受けになる

事が出来たのです。

祈りを強めていきましょう。

4月7日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
「しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。

わたしだ。恐れることはない』と言われた。」

5千人の給食の奇蹟のあと、興奮している群衆を解散させ、弟子たちを

船に乗り込ませ向こう岸にやられ、ご自分は山に退かれ祈っておられました。

次第に向い風が強くなり、波も高くなってきて、弟子たちは試練の中にあり、

恐れが生じて来ていたのです。

イエス様は、水の上を歩いて弟子たちの所に行かれましたが、弟子たちは

イエス様のお姿を見て、幽霊だと思いおびえてしまったのです。

イエス様は「わたしだ、恐れるな」と声を掛けられたように、私たちにも、

「わたしは、いつもあなたとともにいる。恐れるな」と語られています。

ペテロは、「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」

とイエス様のことばを求めたのです。

イエス様が、「来なさい」と言われると、ことばに従って、信仰を持って

水の上を歩いてイエス様の方へ行ったのです。ことばを受け信仰を持って

進みだしたときに、神の奇蹟とわざを見たのです。
 

3月24日(日)コリント人への手紙 第一 10章13節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。だれだれ、求める者は受け、捜す者は

見つけ出し、たたく者には開かれます。」

このみことばは、祈り求め続ければ、捜し続けるならば、あくまでたたき続ける

ならば、だれであっても与えられ、見つけ出し、開かれると語っています。

祈り求め続けることは、信仰を用いることの重要な働きです。

私たちは、なかなか祈りが聞かれなかったとしても、失望することなく、諦める

ことなく、あくまで頼み続けていきましょう。

みこころにかなう祈りなら、必ず主の最善の時に、祈りの答えの成就を見ていくのです。 

3月24日(日)コリント人への手紙 第一 10章13節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。

神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせる

ことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の

道も備えてくださいます。」

私たち、クリスチャンにおいても、様々な試練が許されます。しかし、神様は

私たちを、ただ、悩ませ苦しめさせようとは思ってはおられません。

私たちに与えられる試練は、私たちの信仰の立て上げと、私たちをもっと

神様に近づけさせようとして、許しておられるのです。

そして、その試練は耐えられないほどではなく、試練を通して神様の奇蹟や

真実な愛を知り、体験として受けるのです。

試練の中にあっても。神様から離れることなく、神様を愛し、神様に

聞き従って信仰の歩みをしていきましょう。

3月17日(日)ローマ人への手紙 8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

私たちは、神様のご計画によって救われ、すべての罪が赦されて神の子どもと

される特権を受けたのです。

神様からの恵みによって、受ける資格のない、ふさわしくない私たちを愛して

くださっておられるのです。

そして、神様を愛し従う者のためには、全知全能の神様が、すべてを叩かせて、

益としてくださるのです。

そして、問題の後ろにある、神様のご計画が現れてくるのです。 

3月10日(日)サムエル記 第一 15章22節
「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを

喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾ける

ことは、雄羊の脂肪にまさる。」

サウロ王は、主からアマレクのすべてを聖絶せよと命じられたにもかかわらず、

つまらないもの、値打ちのないものだけを聖絶し、肥えた羊や牛の最も良い

もの、敵のアガグ王を残したのです。

これに対して、主は主の御声に聞き従わなかったサウロ王を退かれ、みこころに

かなうダビデを王として立てられたのです。

主の御声に聞き従うことは、信仰の中心なのです。

3月3日(日)歴代誌 第二 20章15~17節
「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。

あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れて

はならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主は

あなたがたとともにいる。」

ユダの王ヨシャパテの時代、アモン人、モアブ人、セイル山の人々が連合して、

ユダを攻めて近くまで陣を進めて来ていました。

ヨシャパテ達は、これに立ち向かっていく力はなく、絶体絶命の状況になり、

彼らは、断食をして、全員で主に助けを求めたのです。

その時、「この戦いは神の戦いである」と神のことばが語られ、実際、神が戦われ

ましたので、敵は同士討ちをして完全に滅ぼしあって、全滅をしたのです。

問題や試練が許されたら、真実に神の御前に出て、祈り求めていきましょう。

神様は、全知全能の力を現わし、勝利へと導いてくださいます。 

2月24日(日)ペテロの手紙 5章7~10節
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを

心配してくださるからです。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵で

ある悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、

歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」

私たちは、問題や試練に直面すると、悩んだり恐れたり、思い煩いやすいのですが、

神様が最善をして下さるがゆえに、思い煩うなと語っています。

私たちが、不信仰に支配されてしまうとき、悪魔がそこにつけ入り、私たちを

引き摺り下ろしてしまうのです。

ですから、信仰に堅く立って、悪魔に立ち向かって行かなければならないの

です。

神の与えた武器を用いて、感謝し、賛美し、信仰の告白を強めていきましょう。 

2月17日(日)詩編 103篇1~5節
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを

何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を

いやし、
あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみの冠を

かぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲の

ように、新しくなる。」

ダビデによる詩篇ですが、心から主に信頼し、主をほめたたえていることが

よく理解できます。

主は、あわれみと恵みの満ちた方であって、私たちの弱さを知り、私たちの

足りないことをよくご存じですが、私たちのすべての罪、咎を許し、そのような

私たちの一生を良いもので満たしてくださるお方なのです。

ですから、主が良くしてくださったことを何一つ忘れることなく、感謝し、

喜び、告白をしていきましょう。

2月10日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

ピリピ人への手紙は、喜びの書簡と呼ばれ、私たちに喜ぶことを勧め

喜ぶこと強調して、命じておられるのです。

神様は、このみことばで、重ねて、私たちに喜ぶことを命じておられます。

しかし、喜んでばかりおられない状況が多く許されたりしますが、私たちが

信仰を持って喜ぶことを受け取り、それを実行していくとき、私たちが変え

られ、状況が変えられていくのを見るのです。

何故なら、神様の命令に従うなら、神様がすべてのことを働かせて益として

くださるからです。

神様の教え、神様の約束を受け取り実行し、従って行くなら、必ず神様の解決を

見ることになるです。

2月3日(日)コリント人への手紙 第一5章57~58節
「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、

私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。

堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは

自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているからです」

私たちは神よって愛される存在であり、私たちは御子イエス・キリストによって、

実際的にも霊的にも祝福され、神の勝利にあずかる者とされているのです。

私たちの実際の生活のおいても、宣教の働きにおいても、問題が許されたり

揺るがされることも多くあるのですが、神のことばに、神の約束に、信仰に

堅く立って、いつも主のわざに励むように勧めています。

そして、私たちの労苦は、神によってむだに終わることなく、神によって

すべてが益とされ、祝福の基となっていくのです。

1月27日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

この聖書箇所では、どのような時でも、どのような状況の中でも喜ぶことを

命じていますし、重ねて強調しています。

しかし、喜んでばかりいられないことが多く許されますが、そんな時こそ喜ぶ

ことを信仰を持って選び取り、従って進みだしていくとき、私たちの内側が

変えられていくのです。

主にあってですから、主に助けを求め聖霊様の助けによってなしていくときに

喜ぶことができるようになります。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いに

よって」とあります。

私たちは、思い煩ったり、心配したり、悩んだり、恐れたりし易い者ですが、

「すべての事について感謝しなさい」とあるように、神様のことばに従って感謝

していくときに、問題の後ろにある、神様の素晴らしいご計画が現わされて

くるのです。

問題に振り回されることなく、信仰で感謝していくときに、祝福に替えられて

いくのです。

1月20日(日)イザヤ書 53章3節
「しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために

砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、

私たちはいやされた。」

イザヤ書は、多くの箇所でメシア・救い主キリストを預言しています。

特に、53章は「苦難のしもべの歌」と言われ、イエス・キリストが、私たちの

すべての罪、咎を負われ、私たちの罪のために十字架にかかられ刺し通されたと

書かれています。

そして、イエス・キリストが十字架にかかられて死なれ、3日後によみがえられ、

今も生きて働いておられます。

イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは、すべての罪が赦され義とされ、

神と和解し、神の平安と恵みを受ける者とされたのです。

1月13日(日)ローマ人への手紙 8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

「神を愛する人々」とは、他の聖書箇所では「神を愛するとは、神の命令を

守ることです。」とあります。

ですから、神様が命じておられること、神様が語られることに聞き従う者には、

全知全能の神様が、すべてのことを叩かせて益としてくださるのです。

「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝せよ。」と命じ、語られて

いますから、従うならマイナスと思えることであっても、その後ろにある、

神様の素晴らしいご計画が現わされるのです。

神様と、神様の語られることばに信頼して従って行きましょう。

1月6日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

これは、神様の教えであり命令でありますから、私たちは、語られている神様の

みことばに従わなければなりません。

信仰を持って実践していくならば、必ず、神様がすべてのことを働かせて益と

してくださるのです。

ですから、私たちは、問題や試練に振り回されることなく、信仰を用いて

信仰に立って、喜び、祈り、すべてのことについて感謝していきましょう。
12月30日(日)
ヨシュア記 3章11~16節

「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは

民の先頭にいた。箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が

水際に浸ったとき、―ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにふれるのだがー

上から流れる水は突っ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムの

所で、アラバの海、すなわち塩の海の方に流れる水は完全にせき止められた。

民はエリコに面するところを渡った。」

いよいよ、神様の約束の地、蜜と乳の流れるカナンに入ろうとしていました。

そこには、ヨルダン川が川岸いっぱいまで水が勢いよく流れていました。

神の箱が先頭を行き、祭司たちが流れの水の中に足を踏み入れたとき、奇跡が起こり

水がせき止められ、民は歩いてヨルダン川を渡って行ったのです。

神のことばに立ち、信仰を持って踏み出す時、神様がわざを成し、奇跡を起こし、

栄光を現わされるのです。

12月23日(日)ヨシュア記 1章~9節
「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、

あなたは、この民に継がせなければならないからだ。」

偉大な指導者モーセが死んで、彼の従者であったヨシュアに、神様から使命が

与えられたのです。

当時、ヨシュアは若くて実際の経験も少なく、厳しい戦いになる事が予想され

ていましたから弱気になっていたのかもしれません。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはなら

ない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、

あなたとともにあるからである。」

再度、神様は、わたしはあなたが何処にいても、ともにおり助けを与え守って

いくので、強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならないとことばを与えられたのです。

私たちも新しいことに挑戦していくとき、思わず尻込みをしたり、弱気になったり

しますが、神様はともにいてくださり、勝利を約束してくださっています。
 

12月16日(日)ヨハネの手紙 第一 4章7~10節
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

神様は愛のお方であり、私たちを愛してくださり祝福してくださるお方なの

です。

なぜなら、神様は愛だからです。

そして、私たちは受ける資格がないにもかかわらず、イエスキリストを信じる

信仰によって、すべての罪が赦されて義とされ、神の子どもとされ、永遠の

いのちが与えられているのです。

それは、イエス・キリストが私たちのすべての罪を負って、十字架で苦しまれ

死んでくださり、三日目によみがえられて、救いの道を開いてっ下さったから

なのです。ここに神様の愛があるのです。

12月9日(日)マタイの福音書 7章7~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つ

かります。

たたきなさい、そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、

捜す者は見つけ出し。たたく者には開かれます。」

このみことばは、祈りについてイエス様が教えられた箇所です。

祈りは呼吸にたとえられますし、祈りは神様との交わりですし、祈り願う事は、

信仰を用いることなのです。

信仰を神様は喜ばれますし、イエス様は、忍耐を持って、失望することなく、

あくまで頼み続けるように語っておられます。

だれであれ、熱心に、心から祈り求めるなら、神さは、必ず祈りを聞いてくさる

お方です。
 

12月2日(日)マタイの福音書 14章22~33節
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、

水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。イエスは

「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いて

イエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので

叫び出し「主よ。助けてください」と言った。

5千人の給食の奇蹟のあと、弟子たちを強いて舟に乗りこませ、ご自分は

山へ退かれ、祈っておられました。

風が強くなってきて、波が高くなり舟が進まなくなっていて、弟子たちは

不安や恐れだしたのでした。

そこへ、イエス様が水の上を歩いて来られましたので、ペテロはイエス様の

側に行きたくなって、神のことばを求めたのです。

イエス様は「来なさい」と語られ、ペテロはことばを受けて、信仰で足を

水に入れると歩き出したのです。

ところが、風と波を見て恐れてしまい、沈みかけたので、助けてくれと叫んだ

のです。

神のことばに従ったとき、水の上を歩く奇蹟を体験しましたが、周りの状況を

見ると恐ろしくなって沈みかけたのです。

神のことばに立つとき奇蹟を見ますが、神のことばより状況を見てしまい

不信仰になってしまったのです。

11月25日(日)ヨハネの福音書 2章1~11節
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい」彼らは水がめを

縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。

そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。

母マリヤの親類筋でしょうか、婚礼がありイエス様たちも招かれていました。

ところが、結婚の喜びの象徴、祝福の象徴であるワインが切れて無くなって

しまったのです。

ワインがないとなると、結婚の両家の恥となってしまいますので、マリヤは、

その問題を直ぐにイエス様のところに持って行ったのです。

手伝いの人たちは、イエス様が言われたとおり、素直に、水がめに水をくんだのです。

「今くみなさい」と言われ、それを、宴会の世話役のところに持って行った

ところ、水が最上のぶどう酒に変わっていたのです。

手伝いの人たちは、イエス様の言われたとおりに聞き従った結果、神の奇蹟を体験

したのです。

11月18日(日)マタイの福音書 13章23節
「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、

その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは

三十倍の実を結びます。」

悟るとは、二通りあり、一つは聞いて理解する、もう一つは聞いて理解し、

それを実行実践する人のことで、その人は多くの実を結ぶようになると語られました。

イエス様は、4つのたとえを話されていますが、①種が道ばたに蒔かれると、

鳥が来て直ぐに持って行ってしまいます。②岩地に蒔かれと根が張らず、しばらく

すると枯れてしまいます。③茨の中に蒔けれますと、さまざまな状況の中で、

試練があると身を引いてしまいます。④良い地に蒔かれた種のように

正しく神様のことばを聞いて、従って行きましょう。

ですから、神の約束、神の教えを良く聞いて、それを心に留め理解し、実践して

いく必要があります。

11月11日(日)マタイの福音書 13章23節
「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、

その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは

三十倍の実を結びます。」

このみことばは、今年度のみことばですので、しっかり覚えてください。

悟るとは、二通りあり、一つは聞いて理解する、もう一つは聞いて理解し、それを

実行実践する人のことで、その人は多くの実を結ぶようになります。

ですから、神の約束、神の教えを良く聞いて、それを心に留め理解し、実践していく

必要があります。

イエス様は、4つのたとえを話されていますが、良い地に蒔かれた種のように

正しく神様のことばを聞いて、従って行きましょう。 

11月4日(日)ルカの福音書 1章26~37節

「神にとって不可能なことは一つもありません。」

御使いガブリエルが、ナザレに住むマリヤという乙女のところに来て、

おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言ったのです。

マリヤに、聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力がおおい、あなたは

身ごもります。その名をイエスとつけなさいと、言われたのです。

突然のことでマリヤは戸惑い、困難が予想されましたが、マリヤは信仰を

持ってそのことばを受け取りました。

また、年老いて子供のなかったザカリヤとエリサベツの夫婦に、特に、不妊の

女と言われていたエリサベツが妊娠し、6カ月になっていたのです。

神様は、全知全能のお方であり、何一つ不可能のことのないお方なのです。
10月28日(日)ルカの福音書 5章1~11節
「話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。』

と言われた。するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、

何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。』そして

そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網が破れそうになった。」

イエス様は、30歳になられて公生涯に入り、ガリラヤで宣教を開始され、

弟子たちを集められたのです。

シモンたちに会いましたが、彼らは小さい時からガリラヤ湖で育ち、ベテランの漁師で

したが、彼らが夜通し働きましたが何一つとれませんでした。

しかし、イエス様が「深みに漕ぎ出して網をおろして魚を撮りなさい」と言われた時、

彼らは反発したり無視したりすることなく、イエス様のおことばに従ったのです。

彼らは、今まで体験したことのない大量の魚を取ったのですが、彼らは恐れたのです。

「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間を取るようになるのです。」

イエス様のおことばに従って、何もかも捨てて弟子になったのです。
10月21日(日)ローマ人への手紙 8章28節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

神を愛する人々とありますが、他の聖書箇所では、神を愛するとは神の命令を

守ることですと書かれています。

ですから、神を愛し、神のみこころを成し、神の語られることに聞いて従う

人々のためには、全知全能の神様がすべてのことを働かせて益としてくださるの

です。

「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について関しなさい。」

神様が命じておられることですから、どのような状況の中にあっても、私たちが

このみことばに従い信仰の対応をしていくなら、神様がすべての事を働かせて

益となるのを、私たちは見るのです。

10月14日(日)イザヤ書 41章9~10節
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな、わたしがあなたの

神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、

あなたを守る。」とあります。

神様は、私たちを胎のうちから選び出し、神様のご計画のうちに救いへと

入れてくださっておられるのです。

私たちの何かによるのではなく、ただ、神様の恵みとあわれみのゆえに

救われたのです。

そして、いつでもどんな時でも、私たちとともにいてくださり、私たちを

強め、
助けを与え、神様の方から手を差し伸べて、勝利の右の手で握って、

最後まで私たちを守ってくださるお方です。

私たちは、神様に信頼し、神様の約束のことばに立って信仰の歩みをして

いきましょう。
 

10月7日(日)詩編 122篇章1~9節
「人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。

エルサレムよ。私たちの足は、お前の門のうちに立っている。」とありますが、

ユダヤ人は、過ぎ越しの祭り、五旬節の祭り、仮庵の祭りという三大祭には、

エルサレムへ行き、神殿で悔い改め、感謝の祈りをささげなければなりま

せんでした。

友人たちが、彼にエルサレムへ行き礼拝をしようと誘ってくれ、喜んで

エルサレムへ上り、門のうちに立ったのです。

「エルサレムの平和のために祈れ。おまえを愛する者たちが栄えるように。」

神様は、私たちに、エルサレムの平和のために祈ることを命じておられます。

長い歴史の中で、エルサレムは何度も戦火にまみれ、多民族から支配を受け

苦しむことが多かったのです。

神さが命じておられることですから、私たちは従い祈り続けるならば、神様が

祈る者のうちに、祝福と繁栄を与えられるのです。

9月30日(日)マタイの福音書 15章21~28節
イエス様は、イスラエルンを回られて、神のことばを語り、人々をいやし、

解放を与え祝福されておられました。

イエス様は、異邦人の町ツロとシドンの町にも行かれたのですが、すると、

その地方のカナン人の女が出てきて、娘がひどい悪霊につかれているので、

いやしてくださいと叫びながら、後をついてきたのです。

彼女が叫んでも、イエス様は一言もお答えになりませんでした。

しかし、この女は諦めることなく頼み続けたのですが、イエス様は、「異邦人

の方々と関係ありません」と拒絶されました。

女は、娘を直していただきたい一心で、なおも頼み続けるのですが、「子犬に

パンを投げてやるのはよくないことです」と言われるのですが、素直のにそれを

認め、「子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます。」

イエス様は、「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように」

すると、彼女の娘はその時から直ったのです。

信仰の試しが必ずおかれますから、信仰から外れることなく、神様に信頼し、

従って行きましょう。

9月23日(日)マタイの福音書 7章7~8節

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかり

ます。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、

捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

ここでは、イエス様が祈ることについて教えられています。

原語では、祈り続けなさい。捜し続けなさい。たたきつづけなさい、と継続して

祈り続けるように言われています。

他の聖書箇所では、あくまで頼み続けるならば与えられる、失望することなく

祈る続けることも語っています。

祈り求めることは信仰を用いることですから、神様は、それを喜ばれますし、

私たちの祈りを決しておろそかにされないお方です。

私たちが、みこころの祈りを真実にささげるならば、多くの祈りの成就を必ず

体験していくでしょう。

9月日16(日)ヨハネの手紙 第一 5章14~15節
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神がその願いを聞いて

くださるということ、これこそ神に対する確信です。私たちが願う事を神が

聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと

知るのです」

私たちは、さまざまな願いや思いがありますが、それが神様のみこころに

かなう願いや思いであるかを、吟味する必要があります。

そのためには、絶えず神様との交わりをして、神様のみこころを聞いて従う

必要があります。

みこころと確認確信があったら、それを受けたと信じて信仰の歩みをして、

受けたとして告白し感謝していくのです。

そのときに、神様はことばを与えて、確かな約束を受けるのです。

9月9日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

ピリピ人への手紙は、喜びの書簡と言われるように、主にあって喜ぶ

ことを勧めています。

いつも喜ぶことができない状況が許されますが、それを信仰で喜ぶことを

選び取り、喜んでいくときに私たちが変えられ、状況に対応していく力や

知恵が与えられていき、問題の解決を見ていくのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いに

よって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

私たちは、問題に直面すると、思い煩ったり、悩んだり、苦しんだり、自分を

責め、他人を責めたりしてしまうのです。

ここでは、あらゆる場合に感謝し祈ることを勧めています。

何故なら、問題の後ろにある、素晴らしい神様のご計画が現わされてくる

からです。

ですから、すべての事について感謝し、祈り、いつも喜ぶのです。

その時に、神様がすべての事を働かせて、益としてくださるのです。

9月2日(日)ヨハネの福音書 2章1~11節
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもして

あげてください。」

イエスの母マリヤは、ガリラヤのカナでの婚礼に来ていたのですが、

イエス様や弟子たちも招かれていたのです。

花婿の家族は、マリヤの親類で、マリヤは婚礼の裏方でもあったのでしょう。

ところが、喜びの象徴、祝福の象徴であるぶどう酒が足りなくなってしまった

のです。

もし、ぶどう酒がなくなってしまえば、花婿側の落ち度であり、大きな恥を

かいてしまう状況だったのです。

それを知ったマリヤは、その、大きな問題を直ぐにイエス様の所に持っていき、

助けを求めたのです。

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」とイエス様は手伝い

の人々に頼んだのです。

手伝いの人々が、水がめに水を満たすと「さあ、今くみなさい。それを宴会の

世話役のところに持って行きなさい。」彼らが持って行くと、水が上等な

ぶどう酒に変わる奇蹟を、イエス様はなされたのです。

イエス様の語られることばに従って行くならば、私たちもイエス様のなされる

奇蹟のみわざを体験していくのです。

 8月26日(日)ヨハネの黙示録 1章9節
「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスに

ある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であって、神のことばとイエス

のあかし
とのゆえに、パトモスという島にいた。

使徒ヨハネが迫害の中でパトモス島に流され、そこで、イエス様から啓示を

受け、黙示録を書き記しました。

黙示録は、イエス様が、これから起きることを、ヨハネを通して私たちに

教えてくださっていることなのです。

7年間の患難時代、真ん中辺の3,5年で起きる空中再臨と空中携挙、地上

再臨と千年王国、最後の審判と新天新地などか書かれています。

私たちに目を覚まして、その、備えをするようにイエス様は語っておられます。 

8月12日(日)マルコの福音書 11章22~24節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。」

私たちが信じるべきお方は、唯一まことの生ける神様を信じるのです。

お金や、地位、自分に頼るのではなく、神様を信じ従って行く必要が

あります。

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、

そのとおりになります。」

私たちが、神様のみこころにかなう祈りをするなら、必ず祈りは聞かれ

祈りの成就を見るのですから、受けたと信じて信仰の歩みをしていくとき、

神様がみわざを現わしてくださるのです。

「自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」とあり、

私たちは、どのような状況の中にあっても、神様のことばを受け、感謝しつつ

信仰の告白をしていきましょう。

このような、信仰の対応をしていくなら、必ず神様は答えてくださり、神様の

奇蹟のみわざを現わしてくださるのです。

8月5日(日)ルカの福音書 18章1~7節

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、

イエスはたとえを話された。」

イエス様は、私たちが理解できるように、身近なことをたとえに用いて

話をされました。

ひとりのやもめがいましたが、貧しく、後ろ盾もなく、親族にも力を貸して

くれる人がいませんでした。

彼女を訴える人が現れましたが、彼女は対抗する手段がありませんでしたから、

「神を恐れず、人を人も思わない」裁判官のところに行って、裁判をして

自分を守ってくださいと頼んだのです。

しかし、裁判官は取り上げようともしませんでしたが、彼女は諦めることなく、

失望することなく、毎日毎日、あくまで頼み続けて、裁判をしてもらえる

ようになったのです。

7月29日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、

感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに

望んでおられることです。」

いつも喜んでばかりおられないこと、すべての事について感謝できない

ことが
多くあるかもしれません。

しかし、聖書では、信仰を用いて、いつも喜ぶこと、絶えず祷ること、

すべての事について感謝するように命じています。

神様は、私たちを愛しておられ、私たちが祝福されることを願っておられ

ますから、神様を信頼し神様のことばに従い、神様のみこころを行っていく

とき、必ず益となっていくのを私たちは体験していくのです。

どのような状況の中でも、決して神様から離れることなく、神様に信頼し

従って行きましょう。

 7月22日(日)へブル人への手紙 11章6~12節
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、

神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、

信じなければならないのです。」

神様は生きておられ、全知全能のお方であり、私たちを愛しておられ、

私たちに最善をしようとしておられ、私たちを祝福しようとしておられるのです。

ですから、私たちは神様に信頼し、神様のことばを受け取り、御声に聞き従い

信仰の対応をしていく必要があります。

なぜなら、神様は私たちの信仰を通して働かれ、私たちの祈りに、求めに答えて

くださるのですから。

そして受けたという信仰を持って、信仰の告白をしていきましょう。

神様は、私たちの信仰に報いてくださるお方です。

7月15(日)マタイの福音書 7章7~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求めるものは受け、

捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

このみことばは、イエス様が語っておられることで、原語では求め続けなさい。

捜し続けなさい。たたき続けなさいと、継続して祈り続けることが語られています。

神様の時と、私たちの時は異なり、往々にして神様の時は遅く感じることが多いのです。

しかし、神様は、私たちに忍耐をもって信仰によって祈り続けることを望んでおられるのです。

他の聖書箇所では、諦めることなく、あくまで頼み続けることを勧めていますし、

失望することなく祈り続けることを教えてくださっています。

神様は、私たちが祝福されることを望んでおられますから、熱心に求め続け

最善の結果を見ていきましょう。

7月8(日)ヨハネの福音書 9章1~7節
弟子たちは彼について質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、

だれが罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか。」イエスは

答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

神のわざがこの人に現れるためです。」

イエス様は福音宣教の働きをしておられ、旅の途中で生まれつきの盲人に

会われたのです。

弟子たちは、当時のユダヤ人たちがもっていた因果応報の言い伝えから、

この人か両親が罪を犯した結果として、盲目に生まれついたと理解していたのです。

しかし、イエス様がおっしゃったのは、この人が罪を犯したのではなく、

その両親でもありません。神のわざが現わされるためですと語られたのです。

神のことばは、人々を生かし、真の希望を与えてくださるのです。

この人は、イエス様の語られたとおり、神のことばに従って行ったときに

神の奇蹟にあずかることができたのです。

7月1日(日)テサロニケ人への手紙 第一5章16~18節
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、

感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに

望んでおられることです。」

何度でも聞かれたみことばですが、神様は、私たちに、いつも喜ぶこと、

絶えず祈ること、すべての事について感謝することを命じておられます。

しかし、私たちが生活していくと、さまざまな試練、問題。困難、病気、、

などが許されてきます。

そのような時こそ、自分の感情や思索に振り回されることなく、信仰の

対応を成し、喜び、祈り、感謝することを選び取って、神様の語れる

ことばに従って行きましょう。

その時、神様の御手を見、助けを受け、問題の解決と、神にある最善を

私たちは体験していくようになるのです。
 

6月24(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と書か

れていますが、パウロはローマの獄中でこの手紙を書き送ったのです。

私たちが生活をしていくと、いつも喜んでばかりはおられないことが、

起きてきます。

しかし、信仰を持ってこのみことばを受け取り、信仰の対応をしていく

ならば、
私たちはいつも主にあって喜ぶことができるのです。

神様は、私たちが信仰の対応を成し、神のことばを信じて従うことを望んで

おられるのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願い

によって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。

私たちは、何かと思い煩ったり、心配したり、恐れたり、悩んでしまったり

し易い者なのです。

思い煩ったとしてもどうにもならないのですから、これを感謝に替えていく

なら、神様がすべてを働かせて益としてくださるのを、私たちは見るのです。

主に感謝しつつ従って行きましょう

6月17(日)エペソ人への手紙 2章1~6節
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな

愛ゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストともに生かし、-

あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。-

この世はサタンの支配下にありますが、私たちが救われる前には、サタンに

導かれるままに、悪をし放題にもかかわらず目がふさがれていたのです。

そして、義なるお方、聖なるお方であられる神様に反逆し、敵対する者として、

神様のみ怒りに会うべき存在であり、永遠の滅びに行く者だったのです。

しかし、神様は、そのような罪人のために御子イエス・キリストを地上に送り、

十字架にまで付けて、信じる信仰によって、私たちに救いの道を開いてくだ

さったのです。

私たちは、ただ、神様とあわれみと恵みによって救われ、義とされ、永遠の

いのちが与えられ、神の子どもとされる特権が与えられたのです。

私たちが救われたのは、恵みによるのです。
6月10(日)コリント人への手紙 12章7~10節
しかし、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、

わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。

ですから、
私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで

私の弱さを誇りましょう。

パウロは肉体に一つのとげがあり、このとげがなければ、もっと宣教の働きが

出来ると思い、主に、これを去らせてくださいと何度でも願ったのです。

これに対して、主は、「わたしの力は弱さのうちに完全に現わされるからと

言われたのです。

弱さがあると、失望したり、落胆したり、自信を失ってしまったりするのですが、

しかし、主は、わたしの力は弱さのうちに完全に働くと語られているように、

主の前に、弱さのあるままで、欠けのあるままで出て行き、主に真に

祈り求めるならば、主が完全に働きをされて勝利を見ていくようになるのです。

6月3日(日)ローマ人への手紙 10章8~13節

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを

死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる

からです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

父なる神様は、御子イエス・キリストを地上に送ってくださり、私たちすべての

人の罪を、イエス様に負わせ十字架にまで付け、完全に捨てられたのです。

しかし、神様は、イエス様を見捨てておかれず、イエス様をよみがえらせ

天に引き上げられたのです。

その、イエス・キリストを信じ告白すれば、すべての罪が赦され、赦される

だけではなく全く罪を犯さなかった者として、義とされるのです。

行ないでは、だれも救われませんが、イエス・キリストを信じる信仰によって、

ただ恵みによって救われるのです。

ここに、福音があります。

5月27(日)使徒の働き 2章1~8節
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、

激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国の

ことばで話し出した。

先週は、ペンテコステの日に当たり聖霊の働きについてみていきましょう。

イスラエルには3大祭りとして、過ぎ越しの祭り、五旬節の祭り、仮庵の祭り

があり、ユダヤ人はエルサレムに上って神殿で礼拝をしたのです。

イエス様の弟子たちは、イエス様の命じられたとおり都を離れないで、2階の

大広間に集まって、祈っていたのです。

そこに、天から激しい風のような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現れ、

ひとりひとりの上にとどまったのです。これは聖霊様が降臨され、人々は

聖霊を受け、聖霊に満たされ賜物の働きが起きてきたのです。

この時から、聖霊時代、教会時代が始まったのです。

そして、聖霊様の力強い導きによって、初めの雨と言われる大きなリバイバルの

働きが起きたのです。

5月20(日)ヨハネの福音書 15章1~6節
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で

実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと

多くの実を結ぶために刈り込みをなさいます。わたしはぶどうの木で、

あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとど

まっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、

あなたがたは何もすることができないからです。

イエス様はぶどうの木で、私たちは枝です。私たちは、イエス様から離れては

何もできませんし、イエス様の祝福にもあずかることができません。

個人的にイエス様と交わり、イエス様が満ちておられる教会にとどまる時に、

私たちは、本当の祝福を受けることができますし、教会を通しての恵みを受けて

いくのです。

また、私たちが多くの実を結ばせるためには、イエス様は刈り込みを成されるのです。

それは、私たちが本当に神様に近づくために、私たちの信仰の立て上げのために、

刈り込みがあるのです。

イエス様に信頼し従っていくとき、すべてが益となっていくのです。
5月13(日)申命記 8章3~9節
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの

先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで

生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きるということを、

あなたにわからせるためであった
。」

申命記とは、再び教えるという意味があり、イスラエルの民がヨルダン川を

渡って約束のカナンの地に入る前に、モーセが若い世代に神様の律法、守る

べきことを教えたのです。

人はパンのみで生きるのではなく、神様のことばによって導かれ、ことばに

よって守られ、ことばによって祝福されるのです。

イエス様が、四十日四十夜断食のあと、サタンが誘惑をしてきましたが、

イエス様は、神のことばによってサタンを退かせました。

私たちは、主の命令を守り、主の道を歩み、主を恐れ信仰をもって進んで

行きましょう。

5月6(日)イザヤ書 41章10~14節
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの

神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、

あなたを守る。」

イザヤ書は、預言者イザヤによって書かれたものですが、メシア・イエス・

キリストのことを預言し、また、新約聖書で多くのことばが引用されています。

当時のユダヤは、王国が分裂し、敵国であるアッシリアによって北イスラエル

が滅ぼされ捕囚として連れ去られ、代わりに異邦人が移住されてきたのです。

エルサレムもアッシリアによって包囲され、全滅の危機の中で、人々はみな

恐れていたのです。

恐れていた民に対して、神様から励ましのことばと、決して敵の軍門には下ら

ないし、神の勝利の右の手でユダヤを守ると約束されたのです。

神様に約束のことばの通り、アッシリア軍は神の手によって滅ぼされ、逃げ

去って行ったのです。

 

4月29(日)ローマ人への手紙 4章18~22節
「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは『あなたの子孫は

このようになる』と言われたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となる

ためです。」

神様は、アブラハムの信仰を喜ばれ、アブラハムは神様によって約束の子供

イサクが与えられたのです。

「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の

砂のように数多くまし加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち

取るであろう。」と神様が約束されました。

アブラハムはこのことばを信じ、状況的には約束の子供が生まれる状況では

なく、望みえないことでしたが、望みを抱いて神様の時を待ち望んだのです。

アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時にイサクが誕生したのです。

神様が語られらことばは、必ず成就するのです。
4月22(日)ローマ人への手紙 8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

「神尾を愛する人々」とは、他の聖書箇所で神を愛するとは神の命令を守る

ことですと書かれています。

神様は、あらかじめ救おうとしておられる人々を知っておられ、恵みによって

救われた人々を愛してくださっているのです。

ですから、私たちは神様が語っておられること、命じておられることを聞いて

従って行くのです。

その時、全知全能の神様がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。

神様、すべての事について感謝しなさいと愛じて居られますから、ことばに

従って感謝していくとき神様の御手が働いて、問題の後ろにある素晴らしい

神様のご計画が現れるのです。

神様の御声に聞き従って行きましょう。

4月15(日)ヤコブの手紙 1章1~4節
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと

思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは

知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなた

がたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」

ヤコブの手紙は、イエス様の兄弟ヤコブが、国外に散っているユダヤ人

クリスチャンに書き送った手紙です。

ヤコブは、イエス様の兄弟でしたが、イエス様が、メシア救い主イエス・

キリストであることを信じていませんでしたが、イエス様が十字架にかけられ

死んで墓に葬られた後、よみがえられたイエス様にお会いして信じ救われたの

です。そして、ペテロやヨハネとともにエルサレム教会の重鎮として活躍を

した人です。

さまざまな試練が赦されたとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと書かれ

ていますが、試練や問題、困難の後ろには、素晴らしい神様のご計画があるので、

それを喜び受け取りなさいと言っています。

私たちが、どのような試練であったとしても、信仰の対応をしていくなら、

神様がすべてのことを働かせて、益としてくださるのです
4月8(日)ルカの福音書 11章8~10節
「あなたがたに言います。彼は友達だからということで起きて何か与える

ことはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、

必要なものを与えるでしょう。私は、あなたがたに言います。求めなさい。

そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。」

弟子たちが、イエス様にどのように祈ったらよいですかと尋ねたとき、

イエス様は、「祈り続けなさい、捜し続けなさい。たたき続けなさい、あくまで

頼み続けるならば、必要なものは必ず与えられます」と負われました。

失望したりせず、諦めることなく祈りの成就の時まで、イエス様に

期待して祈り続けましょう。


4月1(日)マルコの福音書 16章1~7節

青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられた

ナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。

ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められたところです。」

イエス様は、私たちのすべての罪を負ってくださり、私たちに身代わりと

なられて十字架が死なれ、墓に葬られたのです。

マグダラのマリヤたちは、週の初めの早朝に、イエス様に香料を塗ろうとして

墓に来たのです。

墓の入り口に立てかけられていた大きな石が、すでに取り除けてあったのです。

中を覗くと天使がいて、「イエス様はよみがえられましたので、ここには

おられません。」と言ったのです。

イエス様はよみがえられて、神の右の座に着座され、今も生きて働いておら

れるのです。

そして、私たちを守ってくださり、最善をなさってくださるのです。

私たちは、イエス様の語られることばに注意深く聞き、従って行きましょう。
3月25日(日)マタイの福音書 14章24~32節
14章では、イエス様が、小さなパン五つの二匹の魚で、男だけで人々を

満腹させる奇蹟のわざを行われたのです。

イエス様はすぐに群衆を解散させ、弟子たちを強いて舟に乗せ向こう岸に

やられ、ご自分は山に登って祷っておられたのです。

舟をこぎ出したのですが、しばらくすると強い向かい風が吹いて来て、彼らが

一生懸命漕いでも一向に進まなくなっていたのです。

そこに、イエス様ば水の上を歩いて来られたのですが、弟子たちは幽霊だと

言って、おびえてしまったのです。

イエス様は、「わたしだ。恐れることはない。」と声を掛けられたのです。

ペテロは、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い。

とお命じになってください」いえすは「来なさい」と言われた。そこで、

ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

ペテロは、イエス様のことばを求め受け、ことばによって信仰の歩みをして

いくとき、水の上を歩くという奇蹟を体験したのです。

しかし、風を見て恐ろしくなると、水に沈みかけてイエス様に助けられたの

です。

神のことばに信頼し、最後まで従って行きましょう。

3月18日(日)ピリピ人への手紙 4章6~7節

ピリピ人への手紙は、使徒パウロがローマの獄中から書き送った手紙で、中書簡とも

言われています。

ピリピ人への手紙は、「いつも主にあって喜びなさい。」このみことばが主題です。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

心配したり、悩んだり、恐れたりするのではなく、神様に信頼し、感謝の祈りを


もって神様と交わる時、神様からの示しや解決が導かれますし、大丈夫だいう

確信を受けるのです。

神様が与えてくださる平安は、世が与えるものと違い全き平安を私たちに与えられ
ていくのです。
3月11日(日)
マルコの福音書 11章22~24節

イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに

 告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、

心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおり

になります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに

受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

このみことばは、年初に与えられたみことばで、多くの奇蹟を体験すると語っています。

第一に、「神を信じなさ。」で、神様は、私たち罪びとのために御子イエス様を

十字架につけるまでして、私たちひとりひとりを 愛してくださっているのです。

イエス様を信じることによって、私たちの罪を赦し永遠のいのちを与え、最善を

成されようとしておられるのです。

神様が、私たちを愛してくださっていることを信じるのです。

第二に「受けたと信じなさい。」神様が、語られ導かれていることに対して

すでに受けたと信じて、信仰の歩み対応をしていくときに、そのとおりになるのです。

第三に「自分の言ったとおりに」とあるように、自分の口で告白をしていく時に、

そのとおりになるのですから、絶えず信仰の告白をしていきましょう。

3月4日(日)マタイの福音書 4章1~4節
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が

近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、

命じなさい。」

試みる者とは、悪魔・サタンの事で、サタンはイエス様が四十日四十夜断食した

あとで空腹を覚えられたときに、誘惑をしたのです。

私たちに対しても、病気、困難や試練が許されたときに弱さを覚えたりしますが、

この時とばかり攻撃をしてくるのです。

一番の狙いは、神のことばを取り去り、信仰をずらし不信仰にさせて、理由をつけて

信仰から離させそして、神から引き離し教会から引き離して弱くなったときに背教

させて来るのです。

ですから、どのような誘惑にも乗らず、神のことばを信じ告白して、信仰の対応を

してサタンに勝利して行きましょう。

2月25日(日)マルコの福音書 11章22~24節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。

だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で
疑わず、

ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だから

あなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになります。」

この聖書箇所から、①神を信じなさい。何を信じるかといえば、神様が私たちを

愛して最善をして下さり、善きもので満たしてくださるお方である事を信じるのです。

②すでに受けたと信じなさい。神様は、私たちがみこころの求め、祈りをするなら、

必ず祈りに答えてくださるお方ですから、受けたと信じて信仰の対応をしていくのです。

③告白をしていくのです。ただ、自分の言った通りになる信じるなら、そのとおりになると

語っておられるのですから、神様が与えてくださったビジョンや神様からの示しや語り

掛けを告白していくのです。

これらの、みことばから、今年多くの奇蹟を見ると語られていますので、実践をしつつ

信仰の歩みをしていきましょう。
 

2月18日(日)ダニエル書 3章17~18節

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い

出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」

ダニエル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、少年時代に、バビロンに

よってユダが滅ぼされたとき、バビロンに捕囚として連れてこられたのです。

彼らは、ユダの貴族の子供であったと言われていますが、非常に優れた少年たち

だったのです。

ダニエルはネブカデネザル王の夢を、神に祈って聞き、正確に解きあかしを

して、王から宮廷の高官に任じられました。

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴには、バビロン州の事務をつかさどらせ

たのです。

王は金の像を立て、奏楽の音がなる時、ひれ伏して金の像を拝めと命令を出し

たのです。

しかし、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は、まことの神以外は

礼拝しませんでしたので、訴えられ捕らえられて、燃える炉の中に入れられて

しまうのです。

彼らが、神様の絶対的な主権の前に従って行ったときに、神様が彼らを燃える

火の中にあっても、完全に守られ助けられたのです。
2月11日(日)イザヤ書 55章8~11節
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの

道と異なるからだ。―主の御告げー天が地よりも高いように、わたしの道は、

あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いより高い。」

神様の御思いは、私たちと異なり、私たちよりも高く、広く、深く、そして、

異なるのです。

ですから、神様のみ前に心からへりくだり、祈って神様の御声に聞き従い、

みこころの歩みをしなければならないのです。

「そのように、わたしの口から出る私のことばも、むなしく、わたしのところに

帰っては来ない。必ず、わたしに望む事を成し遂げ、わたしの言い送ったことを

成功させる。」

神様が語られたことばは、決してむなしく地に落ちることはなく、全知全能の力を

働かせ、必ず主の時に完成させ、成就を見ていくのです。

ですから、神様が語られたことばをおろそかにせず、信仰をもって受け取り、堅く

握り神様の時まで神様のことばを告白し、忍耐をもって希望をもって待ち望んで

行きましょう。


2月4日(日)詩編121篇1~8節

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろう。

私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、

あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、

まどろむこともなく、眠ることもない。」

詩編121篇は、礼拝のためにエルサレムの神殿があるモリヤの山を見上げ、

巡礼者としての旅を思い起こし、また、人生の折々で神様が助けてくださった

ことを思い起こしているのです。

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

神様は、いつもともにいてくださり、すべてのわざわいから私たちを守って

くださっているのです。

たとい、わざわいと思えるようなことであっても、神様は私たちを、ただ、

悩ませ、苦しめようとは思われず、私たちの信仰の立て上げのため、私たちを

堅く立たせるために、敢えて懲らしめられることがあります。

そのようなときであっても、神様に信頼し、感謝し讃美し祈っていきましょう。

そして、神様は脱出の道さえも備えてくださり、行くにも帰るにも天国に入る

まで、私たちを守ってくださるのです。

1月21日(日)マルコの福音書8章34節
「しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。

恐れることはない」と言われた。

イエス様は、五千人の給食の奇蹟を行われた後、群衆を解散させ、弟子たちを

強いて舟に乗せ向こう岸に向かわせ、ご自身は山に退かれ祈られました。

湖に漕ぎ出した弟子たちは、強い逆風と波に悩まされて、進むことが出来ず、

真っ暗な湖の上で恐れていたのです。

そこへ、イエス様が水の上を歩いて来られましたから、弟子たちはイエス様を

見間違えて幽霊だと思ったのです。

イエス様のおられたところは、いつも強い臨在があるのですが、彼らはそれを

認識することが出来ず、恐ろしさのあまり叫び声を上げたのです。

イエス様は、「わたしがここにいる、勇気を出しなさい、心配しなくてよい、

大丈夫だ」と声を掛けられたのです。

ペテロは、イエス様に「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになって

ください。」イエスは、「来なさい」と言われ、ペテロは神の声を聞いて信じて

水の上を歩きだしたのです。

神のことばには、力があり、そのとおりになるのです。

ですから、神のことばを受け信仰をもって従って行くとき、大いなる神のわざと

奇蹟を見ていきます。

1月7日(日)ローマ人への手紙 8章28節
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

他の聖書箇所で「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」とあるように、

神様の語られることに聞いて従うことです。

神様に聞き従い、神様の命じておられることを守る人々のためには、全知全能の

神様が、すべてのことを働かせて益としてくださるのです。

ローマ書には、「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝せよと

命令形で書かれていますから、このみことばに従って信仰の対応をしていく

ならば、すべてが益となると約束をしておられるのです。

ですから、良いと思われることは勿論、悪いと思われることについても感謝して

いく時、悪いと思われることの後ろにある、素晴らしい神様のご計画が

現われてくるのです。
12月31日(日)マルコの福音書11章22~24節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに

告げます。

だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で

疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになり

ます。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに

うけたとしんじなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

このみことばから、3つのポイントがあります。

第一が、「神を信じなさ。」で、神様は、私たちひとりひとりを例外なく

愛してくださっていて、最善を成されようとしておられるのです。

神様が、私たちを愛してくださっていることを信じるのです。

第二は「受けたと信じなさい。」神様が、語られ導かれていることに対して

すでに受けたと信じて、信仰の歩み対応をしていくのです。

第三は「自分の言ったとおりに」とあるように、告白をしていく時に、

そのとおりになるのです。

ですから、信仰の告白をしていきましょう。


12月24日(日)エペソ人への手紙 1章3~6節
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、


「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。

神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを

祝福してくださいました。」

神様は、イエス・キリストを通して、特にイエス様が満ちておられる教会を

通して天にあるすべての霊的祝福を与えてくださっているのです。

その最たるものは、イエスキリストを信じる信仰によって、私たちのすべて

の罪を赦してくださり永遠のいのちを与えてくださっています。

そして、神の子どもとされる特権が与えられ、天の御国の世継ぎとされている

のです。

ピリピ人への手紙4章には、「また、私の神は、キリストイエスにあるご自身に

ある栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」

とあるように、神様は、霊的祝福とともに実際的な祝福も与えてくださっている

のです。

神様に信頼し、神様のことばに従って行くときに、すべてが益となるのを

見ていくでしょう。


12月17日(日)へブル人への手紙 11章6節
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、

神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、

信じなければならないのです。」

神様は、信仰のない者は喜ばれることはできませんとありますから、

私たちは信仰を用いて、神様のみこころを行う必要があります。

神様は、私たちの信仰を喜んでくださり、私たちの信仰を通して働きを

現わし、わざを現わして下さるのです。

また、神様は私たちを愛しておられ、私たちを祝福しようとしておられ、

私たちに最善を与えてくださるお方なのです。

ですから、私たちは神さんに信頼し、神様に心を開いて口を大きく開けて

求め続けていきましょう。

確かに、遅いと思わされたり、試しが許さるかもしれませんが、忍耐をもって

神様の時を期待して待ち望んで行きましょう。

12月10日(日)ヨハネの手紙 第一 4章14~16節

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。

愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

神様は、愛のない私たちであっても、赦されない罪人であっても、そんな

私たちを愛してくださっているのです。

そして、私たちを永遠の滅びから救い出すために、愛するひとり子なる

イエス・キリストを十字架にまでつけられ、救いの道を開いてくださったのです。

ここに究極の神の愛があるのです。

イエス・キリストを信じ告白し神に従う歩みをしていけば、聖霊なる神が

私たちにおられ、私たちを助けてくださるのです。

ですから、私たちは神の愛のうちにとどまり、神の導きの中で歩んで行き

ましょう。

神様は、決して私たちを見捨てたり見離すことはなさいません。


12月3日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、

感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたたがに

望んでおられることです。」

このみことばは、命令形で書かれていますから、神さまは私たちに、

いつも祈ること、絶えず祷ること、すべての事について感謝するように

命じておられます。

それらは、信仰を用いることであり、私たちが信仰の対応をしてゆくなら、

神様がすべてのことを働かせて益として下さるのです。

全地全能であられ、私たちを愛してくださっている神様は、私たちに

最善を与えてくださり祝福しようとしておられるのです。

ですから、問題のみに心を奪われたり落ち込んだりすることなく神様に

信頼して信仰の対応をしてゆきましょう。

必ず、逆転の勝利を見ていくようになるのです。 

11月26日(日)使徒の働き 16章22~26節

「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番を

するように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に

足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ讃美の歌を

歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」

パウロたちが、イエス・キリストに導かれ、トロアスから船に乗りネアポリス

からピリピに行ったのです。

彼らは、祈り場と思われる川岸に行き、そこに腰を下ろして、集まった女たちに

話をしたのです。

これを聞いた、ルデヤという紫布の商人の女性が心開いて、イエス様を信じ

救われ、家族そろってバプテスマを受けたのです。

福音が、本格的にヨーロッパに渡った働きで、そして福音はローマから全世界に

伝えられ広がって行ったのです。

しかし、彼らが、占いの霊に取りつかれた若い女奴隷を解放したとき、捕らえ

られて、むちで散々打たれ牢に入れられてしまうのです。

足には足かせを掛けられ、痛みの中で全く動けない不自由の中で、彼らは

感謝の祈りをし、主をほめたたえ讃美したので。

この時、すべての鎖が解かれ看守とその家族が救われるという、神の奇蹟が

起こったのです。

11月15日(日)ルカの福音書 3章2節4節

「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」とありますが、神様は

ザカリヤの子ヨハネに語られたように、私たちにも語られ、ことばをもって導か

れるのです。

ですから、語られた神様のことばが土台となり、神様のことばからスタートして

いくのです。

ですから、語られる神様のことばが、いかに重要な事柄であることを覚え、神様の

ことばを求めていきましょう。

神様は、私たちにわかるように語ってくださるのですから、主との交わりを強め、

耳をかたむけて聞いていきましょう。

「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」とありますが、主イエス・

キリストは、使徒の働き1章にあるように、再び、天に昇られた有様で、この地上

に再臨されるのです。

ですから、主イエス・キリストがいつ再臨されてもよいように、私たちは道を備え、

主の通られる道をまっすぐにして、準備をしておかなければならないのです。

語られている神様のことばに忠実に従い、感謝しつつ、日々なすべきことを一歩一歩進ん

で行く必要があります。

11月8日(日)ルカの福音書 3章2節4節
ダビデの家系の、ヨセフという人のいいなずけの、マリヤのところに御使い

ガブリエルがやってきて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともに

おられます。」と言ったのです。

このみことばは、主の十字架クリスチャンセンターの教会に、今年度与えられた、

神様のことばです。

「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」とありますが、神様は

私たちに語られ、ことばをもって導かれるのです。

ですから、語られた神のことば土台となり、神のことばからスタートしていくのです。

米国であるご婦人が語られた「リバイバルが始まりました」ということばを、これは

本当に神からのことばなのか吟味し、確信されてからリバイバルが始まったことを宣言

されたのです。

つまり、神のことばとして受け取り、ここから本格的なリバイバルの働きがスタート

したのです。

ですから、語られる神のことばが、いかに重要な事柄であることを覚え、神のことばを

求めていきましょう。

「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」とありますが、

主イエス・キリストは再び、天に昇られた有様で、この地上に再臨されるのです。

ですから、主イエス・キリストがいつ再臨されてもよいように、私たちは道を備え、主の

通られる道をまっすぐにして、準備をしておかなければならないのです。

11月1日(日)使徒の働き 1章8節

イエス・キリストは、私たち罪人が当然負わなければならない負債のために、私たちの

身代わりとなってくださり、十字架で痛みの極み、苦しみの極みを受けて死なれたのです。

そして3日目によみがえられて40日の間、ご自身を弟子たちの前に現わされたのです。

そして「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」「しかし、

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、

ユダヤとサマリやの全土、および地の果てまで、わたしの証人になります。」と言ってから、

イエス様は彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられたのです。

イエス様が、捉えられて十字架にかかられるとき、弟子たちは恐れて、イエス様を見捨てて

逃げてしまったばかりでなく、ペテロは「そんな人は知らない」と言って、呪いをかけて

裏切ってしまったのです。

神様のみこころは、すべての人がイエス・キリストを知り、悔い改めて罪から離れ、キリスト


よる救いを得ることを望んでおられ、弟子たちを通して福音宣教の働きを進めようとしておられ

たのです。

彼らに必要ななことは、聖霊にバプテスマを受け聖霊に満たされて、整理の力によって宣教の働き

に出る
必要があり、それが、ペンテコステの日に神のことばが成就したのです。

10月25日(日)ルカの福音書 1章30~38節
ダビデの家系の、ヨセフという人のいいなずけの、マリヤのところに御使い

ガブリエルがやってきて、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともに

おられます。」と言ったのです。

さらに、「あなたはみごもって、男の子を生みます。名をイエスとつけなさい。

その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は

彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」と語りますが、マリヤは「どうして

そのようなことになりえましょうか。わたしはまだ男の人を知りませんのに。」と

答えました。

 御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。

それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」と語ったのです。

 イスラエルでは、正式な結婚の前に1年間の婚約の時がありますが、しかし、

この期間に妊娠することなどは、大変な結果になってしまうのです。

 「神にとって不可能なことは一つもありません。」と語たられているように、

乙女マリヤが聖霊によって身ごもり、イエス様がお生まれになると言われたのです。

 しかし、マリヤは御使いの語ったことばを受けて、信仰をもって受け取り、

「どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように」と言ったのですが、

周りからどのように言われるか、非難されるかわかっていましたが、主に信頼して

受け取ったのでした。

 マリヤの信仰は、素晴らしい信仰ですが、私たちと同じ罪びとなのです。 


10月18日(日)エレミヤ書 29章10~14節 

イスラエルの王や指導者、民たちもみな、真の生ける神を見捨てて、ほかの神々に

いけにえ、をささげ、自分で造った物を拝んだのです。

神様は、この背信に対して、預言者エレミヤを通して彼らの悪にさばきを下すと

語られ、神に立ち帰るように勧めるのでした。

しかし、人々はエレミヤを通して語られる神の御声に聞きもせず、罪を重ね続けた

のです。

神様は、バビロンの王ネブカデレザルを用いて、イスラエル、エルサレムを攻めさせ、

神殿や王宮、城壁を打ち壊し、多くの人々を虐殺して、主だった人々をバビロンへ捕囚

として引いて行ったのです。

 彼らは敵の地で、苦しみと悲しみの中で希望もなく生活していましたが、そんな彼ら

に、預言者エレミヤを通して、再び彼らを憐れんでくださり、
70年が満ちるころ、

人々は再びエルサレムの地に帰ることができると言われたのです。

彼らは、苦しみと痛みの中で、ほかの神々から完全に離れ、イスラエルの神に目を向けて

心から祈り、助けを求めたのです。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ-

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」

と語られた通り、問題の後ろに素晴らしい神様のご計画があったのです。

10月11日(日)ペテロの手紙 第一 5章6~10節 
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が

ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とありますが、

神様はへりくだって神様のみこころを行うものを喜んでくださり、祝福してくだ

さり、ちょうど良い時に高くしてくださるのです。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを

心配してくださるからです。」とありますが、私たちは様々な試練や困難に会うと、

心配したり、恐れたり、悩んだりしてしまう者ですが、この、思い煩うこととは

不信仰なのです。

ですから「いつも喜び、絶えず祈りすべての事について感謝」しつつ、信仰の対応し

主に従って行くなら、最善の結果を見、逆転の勝利を見ていくのです。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子の

ように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

とあるように、私たちが神さまから目を離し、神様に信頼することなく不信仰に陥ったり

、教会から離れると、敵である悪魔が襲い掛かり、食い尽くされてしまうのです。

ですから、教会にしっかりとどまり教会の守りを受ける必要がありますし、信仰に堅く

立って悪魔に立ち向かい、敵である悪魔に勝利していきましょう。

10月4日(日)詩篇 122篇1~9節

「人々が私に、『さあ、主の家に行こう』と言ったとき、私は喜んだ。エルサレムよ。

私たちの足は、お前の門のうちに立っている。」とありますが、巡礼者が、エルサレム

の神殿に上って、礼拝をささげることの喜びを語っています。 

当時、イスラエルの人たちは、過ぎ越しの祭り、五旬節の祭り、仮庵の祭りの3大祭り

には、エルサレムに上って行って、礼拝することが決められていました。

そこには、さばきの座。ダビデの家の王座があり、多くの部族、主の部族が上ってきて、

イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝し、礼拝をささげていたのです。

「エルサレムの平和のために祈れ。『お前を愛する人々が栄えるように。』」

とあるように、主が私たちにエルサレムの平和のために祈るように、命じられています。

 イスラエルは、昔から交通の要衝として重要な位置にありましたから、多くの国々や民族

から侵略をされてしまったのです。

 現在も、ハマスやヒズボラといった武装勢力から、ロケット弾を撃ち込まれたりしています

ので、平和のための祈りが重要になっています。

9月27日(日)コロサイ人への手紙 3章12~17節
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは

深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」とありますが、

私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、神に選ばれ、愛されている

者なのです。

ですから、救われてキリストに似る者とされたのですから、御霊によって深い同情心、

慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けることができるのです。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。また、感謝の
心を持つ人になりなさい。」とあり、私たちに、どのような状況が赦されたとしても、

何も思い煩うことなく、信仰の対応によって、いつも喜び、絶えず祈り、すべての

事について感謝をしていきましょう。

その時、主のみ手が働き、主が最善の解決を与え、問題や試練の後ろにある

神様のご計画が現わされてくるのです。

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして

互いに教え、互いに戒め、詩と讃美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に

向かって歌いなさい。」

私たちは、生きて働かれるイエス様のことばに聞き従い、御心の歩みをしていく

必要があり、感謝にあふれて、賛美し、主を心からほめたたえていく時に、

主の圧倒的な勝利を見ていくのです。

9月20日(日)へブル人への手紙 12章1~7節
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いて

いるのですから、わたしたちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、

私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」と

ありますが、当時のユダヤ人クリスチャンは、ネロによる迫害が迫る中、孤独の中で

戦っていました。

彼らを励ますために、この手紙が書き送られたのですが、11章にはアベルから始まって、

エノク、ノア、アブラハムなどの信仰について語られ、彼らの信仰に倣うように勧め

ています。

信仰を競走とたとえていますが、走るのには重たい荷物を担いでいたり、足に絡みつく

ようなものがあっては、走ることができず倒れてしまったり、投げ出してしまうことに

なるのです。

それらを捨てて、信仰の競争を忍耐を持って決勝点まで、信仰の創始者であり、完成者で

あるイエス様から目を離さず、走り続ける必要があります。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。

主は、その愛するものを懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えるからである。」

主は、あえて、私たちを、愛をもって懲らしめ、むちを打たれるのです。

それは、私たちを聖め、私たちの信仰を立て上げるために許さるのですから、私たちは訓練と

思い耐え忍んでいくのです。

9月13日(日)コリント人への手紙 第一 10章13節
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な

方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることをなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」


あります。

 へブル書には、「主は愛するものを懲らしめ、受け入れるすべての子に、

むちを加えられるからである。」とあるように、神様は私たちの信仰の立て上げ

のために、あえて、試練を赦されますが、それは私たちを愛するが故なのです。

私たちは問題試練に直面しますと、なぜ自分だけ苦しい目に合わなければならない

と、嘆き悲しむことが多いのです。

しかし、試練はみな人の知らないもでありませんと言っているように、多くの方が

同じような問題を抱えているのです。

ですから、訓練と思い耐え忍び、信仰の対応をして「いつも喜び、絶えず祈り、

すべての事について感謝しつつ、賛美しつつ従って行きましょう。

神様は、決して耐えられないほどの試練を与えられませんし、試練とともに脱出の

道を用意され、最善の問題の解決を与えてくださるのです。

ですから、つぶやきや、不平不満、怒りなどの不信仰の態度を悔い改めて、信仰の

対応をなし、主の御声に聞き従って行きましょう。

 9月6日(日)ローマ人への手紙 8章28節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

とあります。

「神を愛するとは」他の聖書箇所では、「神を愛するとは神の命令を守ること

です」とありますので、神を愛し神の御声に聞き従う人々のためには、全知全能

の神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。

たとえ、大きな問題や試練であったとしても、神が語られることに信仰をもって

受け取り、従って行くなら神様は、最善の結果を開いてくださり、問題や試練の

後ろにある神様のご計画が現わされ、神様の栄光が現わされるのです。

神様は、聖書のみことばを通して「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について

感謝しなさい」と命じておられますから、感情や思索で受け取れなかったとしても、

信仰をもって実践していくなら、必ず神様が働いてくださり、問題の解決を与え、

試練からの脱出を開いてくださるのです。

神様に信頼し、最後まで諦めることなく、神のことばを握り、ことばに立ち従って

行きましょう。

必ず、逆転の圧倒的な勝利を見ていくのです。


8月30日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」主にあって

喜ぶように、重ねて強調して命じています。

私たちは、いつも喜んでばかりおられない状況が次々と起きたりして、感情や思索で

捉えてしまうと、落ち込んだり、悩んだり、恐れたり、苦しんだりしてしまう者なの

です。

しかし、主にあってですから、信仰で喜ぶことを受け取り、信仰によって喜ぶことを

選んでいくのです。 

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えに

まさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

とあるように、何も心配しないで感謝し祈りなさいと、語っています。

私たちが、問題に直面した時、思い煩ったり、心配したり、恐れたりしても何の解決の

手段がありませんが、主に感謝し祈っていくときに、主の語り掛けや主にある平安が、

キリストにあって、私たちの心と思いを守ってくださるのです。

8月23日(日)ヨハネの黙示録 6章2節
「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。」

とありますが、封印のさばきの第一で四つの生き物が出てきます。

 第一には、白い馬が出てきて、それに乗っている者は弓をもっていたのですが、

この方はイエス・キリストです。

 黙示録20章には、「見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、忠実また真実と

呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。」とあるように、

白い馬に乗っておられます。

手に持った弓は、遠い敵を打ち破る力があり、宣教の戦いの武器となっています。

ですから、現在では、インターネットの働きや映像の働き、出版の働きなどに当た

ります。

また、患難時代の前半3,5年に、リバイバルの素晴らしい働きが本格的となり、

迫害とともに多くの方が救われる働きとなっています。

前半の3,5年が終わるころ、イエス様は再び来られて、空中再臨されますし、

私たちには携挙を受ける者として、いっきょに天に携えあげられ、空中でイエス様に

お会いするのです。

ですから、いつも御霊に満たされ続け、賜物をもって主に使え、忠実にみこころに

聞き従って行きましょう。

8月16日(日)エペソ人への手紙 5章16~20節
「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」とあります

が、
今の時代は、大きな自然災害や、今までなかったような残虐なテロ、

干ばつや飢饉を引き起こす異常気象などが、次々と引き起こされています。

多くの人々が亡くなる事件なども頻繁に起きていますので、私たちは機会を

用いて、イエス・キリストを宣べ伝える必要があります。


「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りな

さい。」とありますが、私たちが考えることは愚かになりやすいのです。


しかし、主に祈りみこころを知り聞き従うなら、最善の結果を見るように

なるのです。


「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満た

されなさい。」とありますが、酒に酔って一時的な解決を求めても、

何にもなりませんし、刹那的な生活をしても放縦と不安と後悔ばかり

でしょう。


しかし、御霊に満たされた信仰生活をしていくなら、いつも喜ぶこと

ができますし、

絶えず祈ることができますし、すべての事について感謝することができ、

すべてが益となるのを体験していくのです。

ですから、神と神の国を第一として、御霊に満たされるつづけ、進んで
いきましょう

8月9日(日)
ローマ人への手紙 8章28節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のため

には、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは

知っています。」とありますが、他の聖書箇所では、神を愛するとは神

に従うことと語られています。

ですから、恵みによって神様は、みむねとみこころのままに、私たちを

イエス・キリストによってご自分の子のしようと、愛をもってあらかじめ

定めておられたのです。

私たちは、自分たちの行いや考えによったのではなく、ただ、神様の一方的

な愛によって、イエス・キリストを信じて救われて、神の子どもとしての特権

が与えられ、永遠のいのちが与えられたのです。

そのように私たちは、神様からの祝福を受ける存在ですが、神様を愛し神様に

従うならば、神様がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。 

たとえ問題や、困難、試練が赦されたとしても、神様を信頼し神様が語られて

いることに従っていくなら、神様がすべてのことを働かせて圧倒的な、逆転の

勝利を現わしてくださるのです。

8月2日(日)ローマ人への手紙 3章20~24節
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされ、

神の義が示されました。」しかし、今はというのは、イエス・キリストが

公に宣教を開始、ユダヤ教の律法から、信じる信仰へと変わったことを表

わしています。

聖書は、旧約聖書の初めの創世記から、新約聖書の黙示録まで書かれている

主題は、キリストを知らせる、キリストによって救いを得させることが書か

れています。

「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による義であって」とあるように、

イエス・キリストを信じ救われるなら神の義を受ける者とされるのです。

律法の行いによっては、誰一人として救われことができませんが、信仰による義、

すなわち、神のみ前にまったく罪が赦され、まったく罪を犯さなかった者として、

私たちを見てくださるのです。

神様は、義なるお方、聖なるお方、正しいお方ですから、私たちの罪を見逃され

ない方です。

しかし、私たちの罪の贖いとなられて十字架で死んでくださり、3日目によみがえ

られたイエス・キリストを信じる信仰によって、恵みによって義とされ、罪が赦され、

永遠のいのちが与えられ、神の子どもとされる特権が与えられているのです。

 
7月26日(日)エレミヤ書 29章10~14節

エレミヤ書は、預言者エレミヤが神様から語られたことを、イスラエルの民

に語るのですが、イスラエルの民は聞き入れようとしません。


イスラエルの民が、神様に対して偶像礼拝という背信の罪を悔い改めないが

ゆえに、神様は、イスラエルに対してバビロンを用いてさばきをされたのです。

バビロンは、3回にわたってイスラエルを攻め、エルサレムにあった神殿や

王宮、城壁を壊し、人々を捕囚としてバビロンの地へ引いて行ったのです。

人々は、敵地であるバビロンの地で、恐れ、苦しみ、悲しみでいっぱいだった

のです。


そんな人々に対して「私はあなたがたのために立てている計画をよく知っている

からだ。ー主の
御告―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、

あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」と語られたのです。


人々にとって、わざわいとしか思えない状況でしたが、この後ろに神様の素晴

らしい計画があり、人々は悔い改めて、真の行けるイスラエルの神に立ち返り、

主を求めたのです。


そして、70年が満ちる頃、彼らは語られた神の約束の成就を見、彼らの国である

イスラエルに帰還し、国を再建していくのです。


7月19日(日)コリント人への手紙 第二 12章7~12節

使徒パウロが、コリントの教会に宛てた手紙で、第一の手紙を出したあと問題が

解決されていないために、直に第二の手紙を書いたのです。


パウロは、肉体に一つのとげが与えられと書かれていますが、ほかの手紙の聖書

箇所から視力が弱く、時にはつまづきを与えるようなことがあって、三度と書いて

ありますが、何度もいやしを祈り求めていましたが、いやされなかったようです。


しかし、パウロはこの問題を通して、高ぶることのないように与えられたとげと書い

ているように、パウロは高慢もよく理解していた人でした。


【しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、

弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリスト

の力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。】とあるように、

キリストの力は弱さのうちに働くのですから、
弱さや足りなさを嘆いたり、悩んだり

落ち込む必要はないのです。

 主に祈り聞き従い、みこころの信仰の歩みをしていくなら、必ず主イエス・キリストの

助けがあり、最善の結果を見ていくのです。

 ペテロは、イエス様の十字架を前に、イエス様が律法学者やパリサイ人たちに捕らえられ

たとき、恐れて三度もイエス様を知らないと言って、呪いをかけて誓ってしまったのです。

 ペンテコステのとき、ペテロは聖霊に満たされ力を受けて、大胆にイエス・キリストを

宣べ伝える器へと変えられていったのです。


7月12日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節

ピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中から、ピリピの教会へ宛てた手紙

で、感謝の気持ちを現すとともにともに、会員同士の対立に警告を与える内容と

なっています。


ピリピの教会は、パウロが第2回目の伝道旅行で、初めてヨーロッパで宣教地と

して働きを成した教会で、パウロに対して支援を惜しまなかったのです。


ですから、ピリピの教会に対して感謝に溢れ、主にある喜びを強調しており、

喜びの書簡とも言われています。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とありますが、

私たちが生活する上で、いつも喜んでばかりおられないことが多く起こることでしょう。

ここでは、どのような状況が許され、問題や試練があったとしても、主にあって喜ぶ

ことを命じているのです。

状況や自分を見ることなく、神様のことばに立って信仰によって喜ぶことを選び取り、

信仰を働かせていくときに、私たちは神様からの力を受け、問題や試練に対して立ち

向かって行く力と、知恵を受けていくのです。

何も思い煩うことなく、すべての事について感謝し、従って行くときに神様が

すべての事を働かせて益として下さるのを見ていくのです。

7月5日(日)マタイの福音書 14章22~34節

イエス様は、少年の持つ5つの小さなパンと魚2匹から、男だけで5千人の人々を

満腹にされる、奇跡を起こされました。


人々の賞賛の中で、イエス様は人々をすぐに解散させて、弟子たちを強いて舟に乗

せて向こう岸へ送り出し、ご自分は山に登られて祈っておられたのです。


舟を漕ぎ出して沖合に出た頃、逆の風が強く吹き波も高くなってきて、一生懸命漕い

でも舟は進まない状況になったのです。


夜中の3時頃、イエス様は水の上を歩いて来られましたから、弟子たちは恐ろしさの

あまり「あれは幽霊だ」と言って、怯えてしまったのです。


状況を恐れたりすると、そこに、イエス様が来られているのにも関わらず、イエス様

から目を離してしまい、不信仰になったりしてしまうのです。


ペテロは、「あなたでしたら、水の上を歩いて、ここまで来いとおっしゃって下さい。

」と、主のことばを求めたのです。


イエス様は、「来なさい。」と言われたので、ペテロはイエス様の語られたことばに

信頼し、舟を出て水の上を歩き出したのです。


しかし、風や波を見て怖くなり沈みかけたのです。

主のことばを受け、信頼し従って行ったときは、荒れる水の上を歩くという奇跡を体験

したのですが、状況を見て不信仰になったときは沈んでしまったのです。

ですから、語られた主のことばをしっかり握り、どんなときにも主に信頼し従い続ける

のです。


6月28日(日)ヤコブの手紙 1章1~4節

ヤコブの手紙の著者は、イエス様の兄弟のヤコブですが、彼は最初はイエス様が、

メシア、キリスト、救い主とは信じていませんでしたが、後にイエス様を信じ

エルサレム教会の重責を担う器となりました。

この手紙は公同の手紙と呼ばれ、特定の教会に宛てた手紙ではなく、アジヤ地方

に散らされていて迫害されている、教会と人々のために書送られました。

「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

とあり、試練や困難、問題や病が許されたときは、信仰によってこの上がないように、

喜びなさいと言っています。

聖書では、思い煩いなさい、後悔しなさい、心配しなさい、恐れなさいとは言っては

いません。

いつも喜びなさい、絶えず祈りなさい、すべての事について感謝しなさいと信仰の対応

を取ることを命じています。

信仰を働かせ、主に従っていくならば、すべてが益となると、約束されているからです。

私たちは、私たちの信仰の立上げのために、必ず試しが置かれてくるのですが、主に信頼し

忍耐を持って、主に従っていくときに圧倒的な逆転の勝利を見ていくのです。

 

6月21日(日)ローマ人への手紙 8章28節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が

すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

私たちは、あらかじめ神様のご計画によって召され、恵みによって救われた者なの

です。

そして、すべての罪が赦され、全く罪を犯さなかった者として見て下さり、永遠の

いのちが与えられて、神の子どもとされ天の御国の世継ぎとなることが約束されて

いるのです。

ですから、その神様を愛し、神様に聞き従う者のためには、神様がすべてのことを

働かせて益としてくださるのです。

マイナスと思えることであっても、不条理な取り扱いを受けたとしても、あまりにも

大きな問題に直面したとしても、すべてを感謝し、神様に従うならすべてが益となり、

問題の後ろにある神様のご計画が表され、逆転の圧倒的な勝利を見ていくのです。

問題に対して揺れ動く信仰ではなく、神様の言われていることに従い、悪いと思われる

ことであったとしても、すべてを感謝し、神様に聞き従っていきましょう。

6月14日(日)ルカの福音書 15章11~24節

ある人に息子が二人あり、弟が父に「お父さん。財産の分け前を下さい。」と言って

財産を分けてもらい、もらったお金や、売り払った土地代金などをまとめて、遠い国に

旅立っていったのです。

かねてから、そこには面白いことがたくさんあると聞いていましたので、毎日放蕩三昧

をして、お金を湯水のように使って遊び呆けていたのです。

お金がありますから、周りからチヤホヤされて気持ちも大きくなり、気前よく使ったの

です。

あれほどあったお金も、贅沢三昧に使ったので、みるみる無くなって何もかも使い果た

してしまい、食べるものに困り果てたのです。

お金がなくなると、誰も彼のことを見向きもしなくなり、誰も食べさせてくれる人も

なく、そして、飢饉が起こり物乞いのようになっていったのです。

ある人が、豚の世話をさせましたので、豚小屋で生活し豚の食べるもので腹を満たし

たいほどだったのです。

しかし、我に返ったとき彼は「父のところには、有り余るほど食べるものがあるでは

ないか。立って、父のところに帰って行って「自分には息子として呼ばれる資格はないが、

雇い人の一人にしてもらおう。」

こうして彼は立ち上がり、父のもとに帰って行ったのですが、父親はまだ遠いところを

家に帰ろうとしている息子を見つけると、急いで走って行って息子を抱きしめ、口づけを

して温かく迎えるのです。

父親は、悔い改めて戻ってきた息子を、再び息子として迎え入れるのです。

6月7日(日)使徒の働き 16章19~34節

パウロとシラスは、イエスの御霊に導かれトロアスに行くのですが、

ある夜にパウロは幻を見たのです。


「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願されて、

これは、神からのものと確信して、海を渡ってネアポリスに着いたのです。

ここからピリピに行き、祈り場と思われる川岸で、テアテラ市の紫布の商人で

ルデヤという女に出会い、福音を語り救われたのです。

初めて、宣教の働きがヨーロッパに広がり、クリスチャンにとっては大きな

出来事だったのです。

占いをする女奴隷に出会いますが、強い悪霊の占いの霊が支配していましたから、

よく占いが当たったのです。

人々は、彼女に占ってもらうために、主人たちに大金を払いましたから、主人たち

は大儲けをしていたのです。

パウロは、占いの霊に向かって「イエス・キリストの御名によって命じる。この

女から出て行け。」言うと、即座に霊は出て行き、女奴隷は悪霊から解放され

祝福されたのです。

主人たちは、儲ける望みがなくなったので、パウロとシラスを捉え、役人に引渡

し、役人は無実の者たちに鞭で打つことを命じたのです。

さんざんムチで打たせてから、二人を牢に入れ足には足かせを掛けて、身動き

できないようにしたのです。

しかし、真夜中頃、感謝の祈りと賛美を歌っていると、突然大地震が起こり、全ての

獄舎の扉が開き、みなの鎖が解けてしまったのです。

不平や不満、怒りやつぶやくことなく、感謝、祈り、喜ぶ、聞き従うことを通して、

神の奇跡、神のわざが起きたのです。


5月31日(日)ペテロの手紙 2章4~8節

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、尊い、

生ける石です。」とありますが、イエス・キリストは私たちの主です。

私たちは、いつもイエス様のもとに行き、祈りを持って感謝して

交わる必要があります。

なぜなら、イエス様は私たちの主ですから、私たちに語り導かれます

ので、イエス様に従っていくのです。

イエス様は、私たちの罪の贖いとなられて十字架で死んでくださった

のですが、人々からのけ者にされ、あざけられ、唾をきせられて苦し

まれたのです。

ですから、人の目からは捨てられた石ですが、神の目から見れば尊い

生ける石であり、四隅の大切な礎石、土台石なのです。

私たちも、イエス様と同じように生ける石であり、大切な存在であり、

大事な一人一人なのです。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼

する者は、決して失望させられることがない。」彼とは、イエス様のこと

であり、イエス様に信頼し、聞き従うなら決して失望する結果には終わら

ないのです。

ですから、どのような状況が許されたとしても、最後まで忍耐を持って

信仰の対応をしていきましょう。

必ず、主にある勝利を見ていくのです。


5月24日(日)使徒の働き 2章1~12節


「五旬節の日になって、みなが一つところに集まっていた。」とありますが、

ペンテコステと呼ばれています。

過ぎ越しの祭りから50日目に当たり、ギリシャ語で50番という意味が

あります。

他にも、七週の祭りとも初穂の祭りとも呼ばれ、小麦の取り入れを祝う祭り

ですし、ユダヤの過ぎ越しの祭り、仮イオの祭りと、三大祭りの一つです。

イエス様が、「都を離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマをうけるからです。」と語ら

れたことばに従い、祈って待っていたのです。


すると突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に

響き渡り、聖霊様が降臨されたのです。


この時から、聖霊時代、教会時代がスタートしましたし、聖霊が一人一人の上に

臨まれ、聖霊に満たされて、御霊の賜物が与えられ、宣教に必要な力を受けたのです。


ですから、クリスチャンにとってペンテコステの出来事は、非常に重要な事だった

のです。

 
5月17日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節

ピリピ人への手紙は、使徒パウロがピリピの教会へ書送った手紙で、喜び

の書簡とも呼ばれています。

4章という短い手紙の中に、喜びということばが14箇所も出てきますし、

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言う

みことばが主題になっています。

しかし、私たちの人生において喜べない状況というのは、次々と起きてきて

試練や問題の中で、格闘してしまう事が多いのです。

自分たちの感情や思索で捉えるのではなく、主がいつもともにおられて、

私たちに最善をして下さると信仰を持って受け取り、神様のことばに立って、

いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝していくのです。

この信仰の対応、信仰の歩みが、神による問題に対して最善な完全な解決と

勝利を見ていくのです。

私たちは罪人ですから、感情や思索が揺れ動き不信仰になりやすいですし、

思い煩ったり心配したり、恐れたりしてしまう者なのです。

しかし、神のことばに信頼し実践してゆくならば、必ず神の手が働き、圧倒的な

勝利を見ていくでしょう。

5月10日(日)マタイの福音書 7章7~8節

イエス様は、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば

見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と、祈り求めることを

望み、約束を与えてくださっているのです。

また、原語の意味は、求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさいと

継続して求め続けることを命じています。

確かに、祈ればすぐに聞かれる祈りもありますが、神様の時は、私たちが思って

いるよりは遅く感じることが多いのです。


イエス様は、ルカの福音書11章では、3つのパンのたとえを通して「あくまで

頼み続けるならば、祈りが聞かれる」と語っています。


また、18章では、不正な裁判官と年老いた寡婦の女のたとえから、いつも祈る

べきであり、失望することなく、祈り続けることを教えておられます。


祈りは呼吸、聖書は食物にたとえられているように、クリスチャンにとって祈る

こと、聖書を読むことは欠かすことのできないことであり、イエス様は、祈られる

方でしたし、私たちに祈ることを命じておられるのです。

特に、早天祈祷会で祈ることは、一日の始めにあたって重要な事柄ですし、

デボーション箇所から、神のことばに聞き神のことばを受けることは、祝福であり

欠かすことのできないことです。

5月3日(日)士師記 6章11~16節

イスラエルの民は、奴隷の国であるエジプトから神に導かれ、神によって

立てられたモーセとヨシュアという指導者によって、エジプトを出て神が

約束された乳と蜜の流れる地かカナンの地に入り、占領していくのです。

しかし、カナン人を完全に追い払わなかった結果、彼らの偶像礼拝と不道徳

がイスラエルに入り、背信の罪が入ったのです。

イスラエルは主の前に悪を行い、そこで、主は七年の間、敵のミデヤン人の

手にイスラエルを渡したのです。

イスラエル人が、畑を耕し、種を蒔き、肥料をやって収穫の時になると、

いつでもミデヤン人や、アマレク人や東の人々が上ってきて、イスラエル人

を襲い、作物や家畜を奪っていったのです。

そのため、イスラエル人は敵の前に弱くされ、彼らは、主に助け叫び求めた

のです。

主の使いが、ミデヤン人を恐れて、酒ぶねの中で小麦を打っていたギデオン

のところにやって来て「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」と言った

のです。

ギデオンは小さな者で、臆病な者であり、小心な者でしたから、最初、拒むの

ですが、主の語られたことばに従い、300人で戦い、敵を打ち破り、圧倒的な

勝利を見たのです。

語られた神のことばを、信仰を持って受け取り従って行くときに、神が働かれて

勝利を得ていくのです。

4月26日(日)詩篇 105篇16~19節

ヨセフは、ヤコブと最愛の妻ラケルの間に生まれた子供で、ヤコブが年を

とってから与えられた子でしたから、ヤコブはヨセフを他の兄弟たちに増

して愛したのです。

着るものも、他の兄弟たちと違ってそでつきの長服を特別に作らせ、ヨセフ

に着せたりしたのでした。

兄弟たちは、次第にヨセフを憎むようになっていったのです。

ヨセフは17歳の時に夢を見たのですが、ヨセフの束が真っすぐに立ち上がり、

兄たちの束が回りに来て、ヨセフの束におじぎをしたのです。

また、太陽と月と11の星が、ヨセフを伏し拝んでいる夢も見たのですが、

このことを兄弟たちに話したので、兄弟たちは、さらに彼を憎んだのです。

放牧に出た兄弟たちを追って使いに出たヨセフは、彼らに捉えられ殺されそうに

なりましたが、通りかかった商人に奴隷とエジプトへ売られてしまったのです。

孤独の中で、ヨセフの唯一の慰めとなり励ましとなったのは、イスラエルの神

でしたから、神もヨセフと共におられ彼のなすことを祝福されました。

ところが、主人の妻によって無実の罪を着せられ、牢獄に入れられ足かせをかけ

られてしまったのです。

偉くなるという、神様の言葉とは逆に試されて、悪い方へ行くように見えた

ヨセフの人生でしたが、最後にはエジプトで神の語られたように偉くなり、

ヤコブや兄弟たちを飢饉から救い助けていくのです。

語られた神のことばは必ず成就しますので、試しがあったとしても神のことばを

しっかり握り、信仰の歩みをしていきましょう。


4月19日(日)マタイの福音書 20章1~16節

イエス様は天の御国について、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く

出かけた主人なようなものですと語られたのです。

当時のイスラエルは、朝6時から夕方6時まで働いて得る賃金は、1デナリ

だったのです。

これは、家族4人が1日を生活するのに十分なお金だったのです。

朝6時に雇われた労務者は、1日1デナリの賃金で働く約束ができると、安心

して喜んでぶどう園に行って働いたのです。

それから、なおも人手を必要としていましたから、9時、12時、3時に市場

へ出かけて、相当なものをあげるからという約束で雇い、ぶどう園に送るのでした。

そして、5時頃市場に行くと、別の人たちが立っていたので尋ねると「誰も雇って

くれないからです。」と答えたのです。

彼らに、何の約束もしませんでしたが「ぶどう園に行きなさい。」と言ったので、

後1時間しかありませんでしたが、ぶどう園に行って働いたのです。

誰にも雇ってもらえず、食事のことや家族のことを心配したりして、待っていたの

ですから喜んで行ったのでしょう

夕方になると主人は、最後に来た人たちから1デナの賃金を支払ったのですから、

最初から働いた人達はたくさんもらえると期待しましたが、約束の1デナリだった

のです。

12時間働いた者と、1時間しか働かなかった者と同じ賃金では不公平に思われます

が、私たちは受ける資格のない者で、1時間しか働かない者でも、イエス・キリスト

の贖いの恵みを受けるものとされているのです。

 
4月12日(日)哀歌 3章22~33節

哀歌の著者は、涙の預言者と言われているエレミヤだとする説が、有力だそうです。

エレミヤの時代は、イスラエルの民が、イスラエルの神に対して、再三の警告にも

かかわらず背信の罪を悔い改めずに、偶像礼拝をし続けたのでした。

神様は、預言者エレミヤを通してイスラエルの民に、バビロンによるさばきを

語っていたのですが、人々は受け入れませんでした。

そして、イスラエルはバビロンによって3回も攻撃を受け、神殿や王宮はじめ、

人々の家々も破壊され多くの人たちが虐殺され、僅かな人たちを残して捕囚として

バビロンに引いていかれたのです。

このときの、凄まじい敵の攻撃に為すすべもなく敗れ、イスラエルが破壊された

ことに対して哀歌を歌ったのです。

3章の1節から19節までのあいだに、私という言葉が29箇所も出てきて、苦しみ

と嘆きの様子が書かれ、まったく希望のない事がよくわかります。

しかし、22節からは「主」が中心となっていて、神様に目を向けていく中で、希望が

湧いてくるのが読み取れます。

状況によって苦しんだり、呪ったりしていくときには絶望しか生まれてきませんが、

神様に期待し信仰に立ち信頼していく時に、変化が起きてきているのがよくわかります。

どのような状況が赦されたとしても、神様に信頼し信仰の対応をし、神様に聞き従って

いくならば、必ず益になるのを見ていくのです。


4月5日(日)マルコの福音書 16章1~8節

イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって下さり、すべての人たちの罪を

負われて、苦しみの極み、痛みを受け取って十字架で死んでくださったのです。

マグダラのマリヤはじめ何人かの女たちは、イエス様が十字架から取り下ろされ、

亜麻布で包まれ、墓に収められるのをよく見ていたのです。

 安息日が終わり、マリヤたちはイエス様の体に油を塗ろうと思い、香料を買い、

週の初めの早朝、日が昇ったとき墓に着いたのです。

彼女たちは「墓の入口から、あの大きな石を転がしてくれる人が、誰かいるで

しょうか」とみなで話し合っていたのです。

イエス様のところに行くのには、入口に大きな石、大きな問題があって自分たちの

力では、どうすることもできなかったのです。

大きな問題があったにもかかわらず、イエス様を愛するがゆえに、信仰で進んで

行ったのです。

ところが、あれほどの大きな石だったのに、その石がすでに転がしてあったのです。

神様は、私たちの願い思いを知っておられますので、信仰の歩みを持って踏み出して

いけば、問題の解決を見ていくのです。

イエス様は、よみがえられて今も生きておられ、私たちに最善を導いてくださるお方です。

そのイエス様に信頼し、最後まで聞き従っていきましょう。

3月29日(日)ルカの福音書 23章32~43節

イエス様は、まったく罪を知らないお方、罪を犯されない方でしたが、祭司長や

律法学者たちの妬みによって、捉えられて裁判にかけられて死刑にされることに

なったのです。

イエス様は、さんざんムチで打たれてから、ご自分の十字架を負われてゴルゴダ

の丘まで行かれ、そこで、二人の極悪犯罪人とともに十字架にかけられたのです。

イエス様は、十字架刑の苦しみの中で、痛みの中で「父よ。彼らをお赦しください。

彼らは、何をいているのか自分で分からないのです。」と、ご自身を死刑にした人々

のために、また、私たちのためにも執り成してくださったのです。

いっしょに十字架につけられた犯罪人の一人は、イエス様に対して悪口を言い続けた

のですが、もう一方の犯罪人は彼をたしなめたのです。

自分たちは悪いことをした報いを受けているのは当然だ。しかし、この方は神の御子

であり何も悪いことをしなかったのだと言ったのです。

この犯罪人も十字架につけられた時は、イエス様を罵っていたのですが、十字架の上

で苦しまれているにもかかわらず、人々のために執り成しておられる姿を見て、悔い

改めてイエス・キリストであることを信じたのです。

 イエス様は、そんな彼に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしと

ともにパラダイスにいます。」と言われたのです。

十字架の上で、ただ死んでゆくだけで何一つ良い事も出来ませんでしたが、

悔い改めてイエス・キリストを信じて救われ、永遠の命が与えられイエス様とともに天

へ帰って行ったのです。


3月22日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

神様は、私たちに、いつでも喜んでいることを命じておられるのです。

ピリピ人への手紙では、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。

喜びなさい。」と同じように語っていますし、喜ぶことを強調しています。

しかし、いつも喜べる状況にないこともありますが、感情や思索で捉えるのでは

なく、信仰によって喜んでいく必要があります。

信仰の対応をして主に信頼し従って行くときに、神様が必ず益として下さり、問題の

解決を与え勝利を現わされます。

「絶えず祈りなさい。」とあるように、神様に向かって心からの願いを、いつも絶やす

ことなく、祈り求めていくのです。

決して失望することなく、諦めることなく忍耐を持って、あくまで頼み続けるならば、

必ず祈りは聞かれるのです。

「すべての事について感謝しなさい。」すべてですから、良いと思われることも、悪いと

思われることにも、信仰で感謝していく必要があります。

なぜなら、悪いと思われる事の後ろに素晴らしい神様の御計画があり、感謝の対応をして

いくときに、御計画が現れていくのです。

3月15日(日)マルコの福音書 10章46~52節

イエス様は、エリコを通られてエルサレムに行こうとしておられましたが、エリコ

では取税人のかしらであるザアカイに出会い、声をかけられてザアカイは悔い改めて

救われたのです。

エリコの町を出ようとしている時、道ばたに座って物乞いをしていた盲人のバルテ

マイが、
イエス様がお通りになると知って、大声で「イエス様、私を哀れんで助けてください」

と叫んだのです。

たくさんの人々が彼をたしなめたのですが、必死になって、ますます大きな声で、

イエス様に叫んだのです。

それを聞いたイエス様は「あの人を、わたしのところに連れてきなさい。」と言われた

のです。

人々が「心配しなくてよい。イエス様がお呼びになっている。」と言ったので、バルテ

マイは自分の上着を脱ぎ捨ててイエス様のところに行ったのです。

今まで持っていた、自分の考え、価値観、絶望感、孤独感などを脱ぎ捨てて、イエス様の

ところに出て行ったのです。

イエス様は、彼に「わたしに何をして欲しいのか」訪ねられましたが、バルテマイは「私

の目が見えるようになることです。」具体的に求めました。

私たちも、祈り求めるときには、大胆に口を大きく開けて具体的に求める必要があります。

イエス様は、彼の信仰に応えてくださり、即座にいやされて目が見えるようになったのです。


3月8日(日)イザヤ書 41章8~16節

イザヤ書は1章~66章までで、聖書の旧約、新約合計66巻と同じ章の数があります。

後半の40章からは、極めて福音的なことが書かれていて、第5福音書とも呼ばれて

いますし、イエス・キリストについて預言している箇所が多くあります。

「恐るな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

私たちの信じる神様は、私たちを強め、私たちを助け、私たちを守ってくださる

お方なのです。

神様は、私たちの罪の身代わりとして、贖いの代価として御子イエス・キリストを

十字架に付けるまでして、私たちを愛してくださっているのです。

私たちは問題に直面すると、恐れたり、たじろいだり、思い煩ったりしてしまう者

ですが、そんな、私たちのために義の右の手を持って支え続けて下さるのです。

ですから、いつも神様に信頼し、神のことばに従い信仰の対応をしていくならば、

すべてが益となるのを見ていくのです。

3月1日(日)ヨハネの福音書 4章3~10節

イエス様は、ユダヤを去ってガリラヤへ行こうとしておられましたが、わざわざ、

サマリヤを通っていかなければなりませんでした。

真昼の暑い時間に、スカルというサマリヤの町へ来られて、ヤコブの井戸のところで

腰を下ろして休んでおられました。

イエス様は神の御子ですが、私たちと同じ肉体を持っておられましたから、疲れていて

喉も渇いておられたので、井戸の傍らに休んでおられたのです。


時は、暑い盛りのお昼の12時頃で、弟子たちは昼食を求めて買い物に行っていました。

そこへ、ひとりのサマリヤの女が人目を避けて、水を汲みに井戸にやって来たのです。

イエス様は、この女に声をかけて「わたしに水をください」と、声をかけられました。

この女には夫が5人いましたが、現在、生活を共にしている男は夫ではなく、町の人たち

からは批判されていたのです。


イエス様は、この女の一番の関心事である水についてから話しを始め、福音を語っていかれ

たのです。


イエス様の語られることばに心開き、イエス様を信じ、自分の水がめを置いて町に行き、

イエス様のことを町の人に言ったのです。


そこで、町の多くの人たちが、イエス様のおられる井戸のところに行き、イエス様が語られる

ことばによって、信じ救われていったのです。


ユダヤ人たちは、サマリヤ人を軽蔑していましたから、サマリヤの町などを通る人はありません

でしたが、イエス様は、あえて、サマリヤの町に行かれて福音を語り人々を救いへと導かれたのです。


2月22日(日)ローマ人への手紙 8章28節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が

すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。

 神を愛するとは、他の聖書箇所では、神を愛し神に従うことと書かれているように、

神に従う人々のためには、すべてを知っておられ、すべてに不可能のない神が、最善を

して下さるのです。

テサロニケ人への手紙第一には、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝しな

さいという神のことばありますから、どんな困難や試練が許されても、神のことばに従う

なら益となり、問題の後ろにある素晴らしい神のご計画が表されてくるのです。


著者のパウロは、ありとあらゆる困難試練、苦しみの中を通りましたが、信仰の対応をして

いくときに、神がすべてを働かせて益として下さった事を、体験としてよく知っていたのです。


私たちも、たとえマイナスと思える事であっても、最悪と思えることであっても、信仰の対応

をしていきましょう。


必ず、神がすべてのことを働かせて、益としてくださることを見るのです。


2月15日(日)マタイの福音書 7章7~8節

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。」とあります。

イエス様は、私たちに祈り求めることを望んでおられますし、それも熱心に祈りが

聞かれるまで、祈り求め続け、捜し続け、たたき続けるように語っておられるのです。

ルカの福音書11章では、真夜中に友人にパンを借りるたとえをもって、諦めること

なく忍耐を働かせ、あくまで頼み続けるならば与えられると言われたのです。

ルカの福音書18章では、不正な裁判官と年老いたやもめのたとえをもって、いつでも

祈るべきであり失望することなく期待して祈り続けるように、教えて下さっているのです。

私たちは、なかなか祈りの結果をみないと、諦めたり失望したりして、求めることを

止めてしまったりするのです。

祈りは信仰を用いることであり、主が喜ばれることですので、祈りが聞かれるまで祈り

続けていくならば、必ず最善の結果が現れて行くのです。


また、口を大きく開けて、大胆に求めていきましょう。

多くの祈りの成就を見ていくでしょう。

2月8日(日)ヘブル人への手紙 11章13~16節

13節のこれらの人々とは、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラなど信仰の

人たちを指し、彼らは神の都を待ち望んだのです。
彼らは約束のものを手に入れる

ことはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び、この地上では旅人であり

寄留者であることを知っていたのです。


彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

私たちは国籍が天にある者であり、この地上では旅人であるので地上のことだけを

思わず、天に宝を積む生活と働きをしていかなければなりません。

目の欲、肉の欲や、暮らしぶりの自慢など、世のことに心を奪われることなく、

まず、神の国と神の義を第一に求めていきましょう。

ですから、信仰者として神を第一にして生活をしていくならば、主は、必ず私たちの

信仰に応えてくださり、信仰の歩みを喜んでくださるのです。

信仰がなくては、神を喜ばせることはできないのです。

「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」とあるように、主に信頼し

従い続け、みこころを行なっていくなら、必ず信仰による勝利を見ていくようになるのです。

これから、迫害や殉教と語られるなか、信仰の対応をしていかない時に、大変なことに

巻き込まれていくでしょう。

しかし、信仰の歩みをするなら、どのような状況の中でも必ず勝利を取っていくのです。
 


2月1日(日)ヤコブの手紙 1章2~4節
ヤコブの手紙は、イエス様の兄弟であるヤコブが、国外に散っているユダヤ人クリスチャン

が試練にあっているのを聞いて、これを励まし、また、信仰があれば行いがなくても良いと

主張する人たちに、誤りを正すために書いたものです。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

とあります。

私たちは、できれば問題や困難、試練には会いたくないものですが、ここでは、試練にあった

らこの上もなく喜びなさい、最高の喜びだと語っているのです。

ですから、感情や思索ではとても受け入れられないことであっても、神様の許しがなくては

起きないことですから、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝しなさいという、

神様の言われることばに信仰を持って従っていくのです。

神様に従って行くときに確かに、全知全能の方、不可能のない方が最善の方法を持って解決を

与えてくださるのです。

行いとは、主に聞き従うことですから、神様が語られることに忠実に、丁寧に従っていきましょう。

問題の後ろにある素晴らしい神様のご計画が現されてくるのを見るでしょう。

 1月25日(日)ヨハネの福音書 1章12節
 
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子ども

とされる特権をお与えになった。」とありますが、この方とはイエス・キリストを指します。

ローマ書には、イエス・キリストを心に信じて、口で告白すれば救われるとあります。

イエス様が私たちのすべての罪を負われ、十字架に掛かり死んで下さり、墓に葬られ

3日目によみがえられたことを信じるだけで、救われ永遠のいのちが与えられ、神の子ども

としての特権を受けることができるのです。


私たち人間は、すべての人が罪人であり滅び行く存在ですが、そのような私たちのために、

神のひとり子であるイエス様をこの地上に遣わして下さり、私たちに救いの道を開いて

くださったのです。


ここに、神の愛があるのです。

この神の愛をムダにすることなく、すべての人が救われ永遠のいのちが与えられるように

祈り、宣教の働きをしていく必要があります。

私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われ、永遠の命が与えられ、霊的にも

実際的にも神の子どもとされた祝福を受けることができ、イエス様が来られる時には、

イエス様に似た者とされる特権が与えられているのです。

 

1月18日(日)詩篇 103篇1~5節

「私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」私たちは、

全身全霊をもって主を賛美し、ほめたたえるのです。

イスラエルの賛美の中に主は住まわれるのですから、霊とまこととをもって

主をほめ賛美するとき、主ご自身を現されるのです。

「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」主は、私たちにいつも

最善をしてくださるお方なのです。主がなされることは、私たちにとって益と

なることをして下さるのですから、良くしてくださったことを何一つ忘れること

なく、信頼し従って行きましょう。

主は、私たちのすべての罪咎を赦してくださるお方であり、罪を赦すことの

できる方は、主より他にはいません。

ですから、へりくだって主のみ前に出て、悔い改めることは悔い改め、罪咎を

赦していただきましょう。

主は、罪人であり当然滅ぶべき私たちを、滅びの穴から救い出し、永遠のいのちを

与えてくださるお方なのです。

受ける資格のない私たちに、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、豊かに祝福してくだ

さるのです。

ですから、どのような状況の中であっても、主に信頼し主に聞き従っていきましょう。


1月11日(日)士師記 7章2~8節

ギデオンの時代、イスラエル人は主の前に悪を行なった結果、主は7年のあいだ、

彼らをミデヤン人の手に渡されたのです。

イスラエル人が、畑を耕し種を植え、手入れをして育てると、毎年収穫期になると

ミデヤン人たちが攻めてきて、根こそぎイスラエルの収穫物を奪ってしまうのです。

イスラエルは非常に弱くなって主に助けを求めのですが、主は臆病で小心なギデオン

を選ばれて「勇士よ。あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人から救え」

と、語られたのです。

ギデオンは、イスラエルの人々に使いをやって、戦いに行く人々を集めたのです。

このととき、敵は13万5千人でしたが、イスラエルは3万2千人しか集まら

なかったのです。

しかし主は、恐れおののく者は返せと命じられ、2万2千人が帰って行き、残りは

1万人に減ってしまったのです。

それでなくても敵の兵士に比べれば圧倒的に少ないのですが、さらに主は、試しを

置かれて、本当に戦いに備えができている兵士300人を選ばれたのです。

そして、主が戦われて300人の兵士を用いて、敵を完全に滅ぼされ圧倒的な勝利を

現わされたのです。

これから、リバイバルに向けて、私たちも戦いに備えて行く必要がありますし、主は

備えのある者を大きく用いていかれるのです。


1月4日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

とあります。

神様は、私たちに、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝するように、

命じておられるのです。

しかし、私たちは、いつも喜んでばかりいられないことや、自分の感情や思索では

感謝できないことが多く許されるのです。


思い煩ったり、恐れたり、悩んだりするばかりで、解決をしようとしても手立てが

見つからないことも多いことでしょう。

この聖書箇所では、私たちに、神様に信頼し神のことばを受け取り、喜べない状況で

あっても信仰で喜び、感謝できない状況であっても信仰で感謝して対応をして行くときに、

神様がすべてを働かせて益として下さり、最善の結果を見ていくようになるのです。

終わりの時代には困難がやってくると、イエス様が語られたように、迫害や試練なども

許されてくるでしょう。

もし、私たちが、すべての事について感謝しなさいという神様のことばを知らず、

実践していかなければ耐えていけないことが多くなってきます。

ですから、語られた神様のことばに従い、神様のみこころを行っていくならば、必ず助け

があり、耐えていく勇気と力が与えられてゆくのです。


12月28日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」この

みことばは、ピリピ人への手紙の主題になっています。

喜びなさいと、二度繰り返していることは、みことばの重要性を強調して

いることがわかります。

私たちは、いつも喜んでばかりいられないことがありますが、そんな時でも

信仰によって喜ぶことを選び取り、喜んでいく必要があります。

ネヘミヤ記には、「主を喜ぶことはあなたがたの力です」とありますから、

信仰によって喜んで行く時に、問題に対して対応していく力、知恵が与え

られていくのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと

願いによって」とありますが、どんな事が許されても、心配したり、恐れ

たり、悩んだりだりしないで、信仰によって感謝し賛美をすることを、

主が命じておられるのです。

主のことばは、私たちに勇気を与え、真の希望を与え、勝利を与えて下さる

のです。

ですから、主に信頼し、信仰によって主のみことばに聞き従って行くなら、

主にある最善の結果を見ていくようになるのです。


12月21日(日)
ローマ人への手紙 8章28節

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」

神を愛するとは、他の聖書箇所では、神を愛し神に聞き従う事と、書かれて

います。

ですから、神様が語られることに聞いて従わなければなりませんから、例えば、

すべての事について感謝しなさいと、命じられていることに従うのです。

すべての事ですから、良いと思われることについても、受け取ることのできない

ような最悪の状況であっても感謝するのです。

私たちは、問題や試練が許された時、どうしても思い煩ったり、落ち込んだり、

心配してしまう者なのです。

しかし、聖書を通して神様が語っておられるみことばに従い、信仰の対応をとって

いくときに、全知全能の神様が、すべての事を働かせて益としてくださるのです。

 けれども、不信仰の対応をしていくとき、神様は働くことができませんから、

問題は問題として残ってしまうのです。

神様が、私たちにもっておられる御計画は、わざわいを与える計画ではなく、平安と

希望と将来をお与えになる、ご計画なのです。

神様と神様の語られることばに信頼し、従って行きましょう。

必ず、最善の結果を見ていくのです。



12月14日(日)ローマ人への手紙 10章9~11節
 

私たちは、律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを

信じる信仰によって義と認められるのです。なぜなら、律法の行いによって

義と認められる者は、ひとりもいません。

ですから、心に信じて義と認められ、私たちの口でイエスを主と告白して救わ

れるのです。

そして、神の子どもとしての特権が与えられ、天の御国の世継ぎとされ、永遠

の命という素晴らしい賜物を受けるものとされているのです。

罪の赦しと救いは、私たち罪人には受ける資格がないのですが、神の愛と恵みに

よるものです。

イエス・キリストが、私たちのすべての罪を負われて、私たちの罪の身代わりと

なられて、苦しみの極み、痛みの極みを味あわられて十字架で死んで下さり、墓

に葬られ3日目によみがえられたのです。

「彼に信頼する者は、失望させられることはない」とあり、彼とはイエス・キリスト

のことです。

イエス・キリストに信頼する者は、決して失望する必要がありませんし、必ず主に

ある最善がなされ、失望する結果には終わらないのです。

ですから、どのような状況の中にあっても、主に信頼しみ声に聞き従い信仰の対応

を成し、主に期待していきましょう。


12月7日(日)マタイの福音書 14章24~34節
 

今回の聖書箇所の前には、イエス様がなされた5千人の給食の奇蹟のことが

書かれていますが、イエス様は直ぐに弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ

やられたのです。

イエス様は、山に登られて静まる時をもたれ、祈られたのです。

弟子たちは、一生懸命に船をこぐのですが、向かい風がと良くなってきて、波も

荒れてきたのです。

真っ暗な中で、漕いでもこいでも進まず目的地までまだ遠く、恐れや心配もあった

ことでしょう。

そこに、イエス様が水の上を歩いてこられましたから、弟子たちは幽霊と見間違

えて、恐れのあまり叫び声を上げてしまったのです。

イエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけ

られたのです。

イエス様は、私たちにいつでも、勇気を出しなさい。大丈夫だ、心配する事はない

と語ってくださっているのです。

ペテロは、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来いと、

とお命じになってください。」と、主のことばを求めたのです。

イエス様は「来なさい」と言われ、ペテロはことばに従って、舟を出て水の上を歩い

て行ったのです。

ところが、風を見て、怖くなって沈みかけたのです。

ことばを受け、ことばに従って信仰の歩みをしていったとき、水の上を歩く奇蹟を

体験したのですが、状況を見て不信仰に支配されたときは、沈んでしまったのです。

主のみ声に聞き従い、信仰の歩みをしていくことが重要です。

 

11月30日(日)ハバクク書 2章3節
 

預言者ハバククは、エレミヤと同時代に、神に召されて預言の働きをしていました。

ユダヤの指導者や民が堕落して、神の教えに反し暴行や暴虐がまかり通り、悪者が

正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われ、律法がないがしろにされていたのです。

ハバククは、このような状況を憂いて、民に代わって神に向かって問うたのでした。

これに対して、神様は、異邦の民である強暴で激しい国民であるカルデヤ人を起こし、

ユダにさばきを行うと宣告されたのです。

しかし、カルデヤ人も神の前に罪を犯したゆえに、彼らに対してもさばきが行われると

語られたのです。

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」と語られ

たように、さばきが遅いように見えても、それは必ず来るのです。

このことばは、主の十字架クリスチャンセンターに与えられたリバイバルの約束のことば

ですし、召しのことばでもあります。

ですから、遅いように見え感じたとしても、神の約束のことばを握って信仰の歩みをして

いきましょう。

それは、遅れることなく確実にやってきますので、諦めることなく忍耐を持って待ち望ん

でいきましょう。

それは、主の最善の時に必ず来るのです。

 

11月23日(日)ヨハネの福音書 6章5~14節

イエス様が、ガリラヤ湖の向こう岸に行かれた時、大勢の群衆が従ってきて、

イエス様のなされるしるしを求め、福音のことばを聞きに集まっていたのです。

イエス様は、時刻も夕方になって人々がお腹を空かしているのをご覧になって、

「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と、ピリポを

試さされたのです。

ピリポは、「めいめいが少しづつ取るにしても、200デナリのパンでは足り

ません。」と答えたのは、無理ですという思いだったのでしょう。

しかし、アンデレは少年のお弁当に持っていた、小さな5つのパンと2匹の

小さな魚を、イエス様のところに持ってきたのです。

「こんな大勢の人々では、それが何になるでしょう。」と言っているように、

疑いがあったとしても、それをイエス様のところに持ってきたことが、良かったのです。

ガリラヤのカナで婚礼があり、大切なぶどう酒がなくなったとき、母マリヤは、

イエス様のところに問題を持っていきましたが、イエス様は水をぶどう酒に変える

奇蹟をなされたのです。

イエス様は、人々を座らせ食事の準備をさせ、手にあるものを感謝し、人々に分けて

与えられたのです。


男だけで5千人の人々が、ほしいだけ食べて満腹する奇跡が現されたのです。

諦めることなく、問題をイエス様のところへ持って行き、感謝し求めていく時に、

素晴らしい主のみわざを見ていくのです。

 

11月16日(日)マタイの福音書 6章25~34節

マタイの福音書5章から7章までは、イエス様が山上で人々に信仰の基本を

説教されましたので、山上の垂訓と言われています。

6章33節には、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。

そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあり

ますが、神の声に聞き従い、神のみこころを行うことを求めています。

それには、まず、毎朝の神様との交わりである早天祈祷が重要ですし、そこで

語られる神様の語られることを聞かなければなりません。

特に、聖書のデボーション箇所からの語りかけは、一日の始まりの祝福となり、

導きともなります。

私たちは、個人で主と交わり、また、教会を通して語られる神様の導きを正し

く捉え、従っていく必要があります。

しかし、「神の国と神の義は」世の常識とは異なることが多いのですが、神の

ことばが真実であり、神のことばを受けて従うときに完全な勝利と、祝福を

受けていくのです。

ですから、世の常識とぶつかる時には、神様のものを第一として選び、従って

行きましょう。

 11月9日(日)ピリピ人への手紙 4章5~7節

「あなたがたの寛容な心を、全ての人に知らせない。主は近いのです。」と

ありますが、一つには再臨が近づいているという説です。

世界の状況を見ていますと、イエス様が語られているような事が、次々と

起きていますし、再臨が近いことを覚えさせられています。

ですから、主が再びいつ来られても良いように、主が語っておられることを

忠実に備えをしていかなければならないのです。

もう一つは、イエス様は私たちとともにおられ、内におられますから主は

近いのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと

願いによって、」とありますが、私たちは困難や試練に直面しますと、

恐れたり、苦しんだり、悩んだりしやすい者ですが、ここでは、何も心配するな、

恐れるな、思い煩うなと語っているのです。

ですから、そういう時こそ、信仰の対応が重要になってきましし、感謝し、

賛美し、喜び、信仰の告白をしていくならば、神様が働いて益と下さり、

勝利を見ていくようになるのです。


11月2日(日)ローマ人への手紙 8章28節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためにはためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

神を愛する人々とありますが、他の聖書箇所では、神を愛するとは神の命令を

守ること、神を愛するとは神に従うことと書いてあります。

ですから、神を愛し従う者のためには、すべてが益になるように神様が働いて

くださるのです。

テサロニケ人への手紙第一5章には、すべての事について感謝しなさいと命じて

おられますから、良いと思われることについても、悪いと思われることについても

感謝をしていくのです。


自分たちの感情や思索では到底受けいれられないことであっても、信仰によって

受け取り感謝をしていくとき、私たちの心は守られていくのです。神のことばに

従い信仰の対応をしていくなら、神様が問題と思われることを益として下さり、

マイナスと思えることが益に変えられ、逆転の勝利を見ていくのです。


10月26日(日)マルコの福音書 4章35~41節

イエス様は、湖のほとりで教えられ始めたのですが、おびただしい群衆が

迫ってきましたので、舟に乗り込み、そこに腰を下ろして話をされたのです。

話し終えられると、弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われ、群衆を残し

て舟に乗ったままで、沖に漕ぎ出していったのです。

弟子たちは、イエス様の語られたことばによって、何処へ行くかわからず、

イエス様に従って、何か待ち構えているかもしれない沖へと、進んでいった

のです。

すると突風が起こり、船は波をかぶって、水でいっぱいになり沈みそうに

なってきたのです。

確かに、私たちの生活のおいても、働きにおいても、時には大きな問題が

許されたり、試練に直面することがあるのです。

ところが、イエス様だけは、疲れておられたのか、ともの方で、枕をして

寝ておられたのです。


弟子たちは、危機的状況の中で動揺し、慌ててイエス様を起こして「先生。

私たちが
おぼれ死にそうでも、なんとも思われないのですか。」と、助けを求める

のではなく、イエス様に文句を言ったのです。


イエス様は、起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、沈まれ。」と

命じられると、風はやみ、大凪になったのです。


イエス様は、天においても地においても、いっさいの権威をもっておられる

方ですから、自然さえ従うのです。


イエス様は、なぜ怖がるのですか。信仰がないのはどうしてですかと言われ

ましたが、信仰の対応をしていかない時に、問題に対して勝利できないのです。


しかし、神のことばに立ち、信仰の対応し、主に従うなら、必ず勝利を見て

いくのです。


10月19日(日)コロサイ人への手紙 3章15~17節

コロサイ人への手紙は、使徒パウロがローマの獄中から書送った手紙で、

獄中書簡と呼ばれています。

パウロは、コロサイには行ったことがありませんでしたが、パウロから

エパフラスたちが聖書の教えを受け、教会の働きをしていたのですが、

異端問題が表面化してきて、このために、手紙を書いたのです。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。その

ためにこそ
あなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人に

なりなさい。」とありますが、私たちがいつも、キリストにある平和、

平安な心で、生活するように語っています。

私たちは、罪がありますから、試練や問題、困難が許されると、思い煩ったり、

心配したり恐れたりしてしまうのです。

しかし、神様は、どのような状況の中であっても、主に信頼し従い信仰の

歩みを望んでおられるのです。

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、感謝にあふれて

心から神に向かって歌いなさい。」とありますが、キリストのことばは、

私たちの足のともしびであり、道の光なのです。

神のことばは、私たちを解放し、問題の解決を与え、真の希望を与える

ものなのです。

そして、心からの感謝と賛美の信仰の対応は、問題に対して必ず解決を与え、

勝利していく鍵なのです。



10月12日(日)創世記 22章9~14節

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に合わせられた。神は仰せられた。

『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行き

なさい。そして私があなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクを

わたしにささげなさい。』

神様は、あえてアブラハムに試練に合わせたのですが、私たちの場合も試練が許さ

れるのです。


その試練は、私たちを、ただ、悩ませ苦しめさせるのではなく、私たちの信仰の

立上げのために許されるのです。


ですから、試練や問題がゆるされたのならば、私たちは信仰の対応である感謝し、

喜び、賛美し、聞き従い、信仰の告白をしていく必要があります。


その時に、私たちは信仰による勝利を、必ず見ていくようになるのです。

アブラハムは愛するイサクを、全焼のいけにえ、としてささげなさいと語られた神の

ことばを受けて、翌朝早くモリヤの山へ向けて出発するのです。

そして、モリヤの山で祭壇を築き、薪を並べイサクを縛り置いて、今にも剣で刺そうと

した時に、御使いの声で「ほふってはならない。」と言われたのです。

神様は、アブラハムの神に対する信頼、信仰の歩みに対して、必要ないけにえとして雄羊を、

イサクの代わりに用意していて下さったのです。

神様は、私たちに必要なすべてをご存知であり、すべてを備えてくださるのです。


10月5日(日)詩篇 122篇1~9節

詩篇の作者は、友人たちからエルサレムに上って、神殿で礼拝することを

誘われたとき、心から喜んだのです。

ユダヤ人は、過ぎ越しのまつり、五旬節のまつり、仮庵のまつりには神殿に

行って、礼拝することが決められており、人々は喜んで上って行ったのです。

私たちは、主日に礼拝をささげていますが、霊と真を持って心から主を賛美し、

礼拝をしていく必要があります。

そして、そのような礼拝を、主が喜んでくださり受け取ってくださいますし、

主の豊かな御臨在が現されるのです。

6節には、「エルサレムの平和のために祈れ。」とありますが、イスラエルは

交通の要衝でありましたから、多くの国々から侵略を受け、支配を受けてきた

歴史があります。

何度も敵の攻撃を受けましたが、神様はエルサレムの平和のために祈るように、

私たちに命じているのです。

ですから、イスラエルの平和のために、エルサレムの平和のために、毎日祈り

続ける必要がありますし、祈りは聞かれていくのです。

私たち,主の十字架クリスチャンセンターは、究極の海外宣教の働きとして、

イスラエル宣教、ユダヤ人伝道が語られていますので、イスラエル、エルサレムの

平和のために祈ることは重要なことです。


9月28日(日)ペテロの手紙 2章4~10節

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして聖なる祭司

として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」

とありますが、霊の家とは教会を指し、教会を通して霊的な成長が与えられます。


ですから、みからだなる教会にしっかりとどまり、聖書を読み、祈ることは重要な

ことですし、成長には欠かすことのできないことです。
   

イエス・キリストを信じた私たちは、万民祭司として、神に喜ばれる、礼拝をささげ

なければなりません。

霊とまことをもって主を礼拝し、感謝と賛美と祈りをささげて行きましょう。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して

失望させられることがない。」とありますが、彼とはイエス・キリストのことであり、

彼に信頼する者は、決して失望させられないし、失望に終わる結果にはならないのです。

ですから、どのような状況が許されたとしても、イエス様に信頼し、信仰の対応をして

いくならば、必ずイエス様が働いて下さり、最善の結果が現されますし、完全な解決を

見ていくのです。


9月21日(日)ピリピ人への手紙 3章4~7節

ピリピ人への手紙は、使徒パウロが、ピリピの教会に書き送った手紙で、喜びの

書簡と呼ばれています。

ピリピの教会は、パウロたちがイエス様に導かれて、トロアスから船でマケドニアに

渡り、ヨーロッパで最初に宣教を開始した所に立てられた教会です。

祝福された教会でしたが、様々な問題があり、パウロは教会の人々を励ますために、

導くためにこの手紙を書き送ったのです。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」とありますが、

教会内に問題があり、喜べない状況が許されていたのですが、あえて、主にあって

喜ぶことを命じているのです。

感情や思索では受け入れられなくても、信仰で喜ぶこと、感謝すること、賛美すること

、祈ること、告白することを選び、みことばに従うことが重要です。

また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」と、ネヘミヤ記にあるように、

喜ぶことを実践していくと、思い煩いや、悲しみ、苦しみから解放されて、信仰による

勝利を見ていくようになるのです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあるように、問題や試練に対して、

心配したり、恐れたり、苦しんだりすることなく、信仰の対応をすることを命じて

おられるのです。

信仰の対応をしていくなら、主にある、逆転の圧倒的な勝利を見ることになります。


9月14日(日)サムエル記 第一 15章22~23節

サムエルは、預言者として、最後のさばきつかさとして主に立てられた、器です。

サムエル記には3人の人物が出てきますが、サムエル、サウル、ダビデの働きに

ついて書かれています。

サウルは、主の導きによってサムエルから油注がれて、イスラエルの王に任じ

られたのです。

サウルに対して、預言者サムエルから神のことばが語られ、長年にわたってイスラエルを

苦しめ戦ってきた、アマレクを聖絶せよと言う命令が出されたのです。

「男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、ラクダもロバも殺せ。」という

命令でした。

しかし、サウルと民は、アマレクの王と、肥えた羊や牛の最も良いもの惜しみ、

ただ、つまらないもの、値打ちのないものを聖絶したのです。

これに対して、主は、主のみ声に聞き従わなかったサウルを、王位から退け

られたのです。

主のみ声に聞き従うことは信仰の実践であり、働きの土台でもあるのです。

主が語られたことに従うのなら、人の全てに勝る、主のわざと力と栄光を見る

ことになります。

ですから、語られる主の小さなみ声を注意深く聞いて、従うべきことは従って

行かなければなりません。

 
9月7日(日)エレミヤ書 29章10~14節

イスラエルの人々は、真の生けるイスラエルの神に反抗し、偶像礼拝と言う背信の

罪を犯し続けていたのです。

これに対して、神様は、バビロンの王ネブカデネザルを用いて、イスラエルを攻撃し

責め取らせ、神殿や宮殿、人々の家を破壊させ、捕囚としてバビロンへ移送させたのです。

バビロンのカルデヤ人は残酷な人種で、イスラエル、エルサレムを徹底して破壊し、

多くのイスラエルの人々を殺害しましたから、捕囚された人たちは、恐れがあり新しい

環境にもなかなか馴染めなかったのです。

預言者エレミヤは、そんなイスラエルの人々に、神のことばを手紙に書いて送ったのです。

70年間の捕囚の期間、そこに住み着き、真に神を求め正しい信仰生活を送るように

教えるのです。

そして、神の計画は、わざわいを与える計画ではなく、平安と将来と希望を与える計画

だと語るのです。

人々にとって、敵地での生活は悲しく苦しい生活でしたが、背信の罪から解放され熱心に

神に助けを求め、神に従う生活を送ったのです。

そして、70年が満ちる頃、約束された事が成就し、エルサレムへの帰還が実現したのです。

私たちの生活でも、試練や困難が許されますが、それは、わざわいを与える計画ではなく、

私たちの信仰の立上げと成長のために、そして、問題の後ろにある素晴らしい神の計画が

現されるためなのです。


8月31日(日)コリント人への手紙 第二 12章7~10節

パウロは、「肉体に一つのとげが与えられている。」と言っていますが、具体的に

記述がありませんから、どのようなことかはわかりません。


しかし、他の聖書箇所から、目が非常に悪かったのではないかと、解釈する人たちも

います。


8節には、「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、3度も主に

願いました。」とあるように、パウロは宣教の妨げになるトゲが取り除かれるように、何度

も主に願って祈っていたのです。


このトゲさえなかったら、もっと宣教の働きをすることができるのに、願い祈ったのでしょう。

9節に、しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの

力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのである。ですから、私は、

キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。


もし、私たちが強くて、自分の力で何でも完璧にこなして行けるなら、主のところに行き

主を求めることも、主に助けを願う必要もなく、主に従って行くこともないでしょう。


しかし、そこで現さるのは、人の努力の実しか現されませんし、大きな実にはならない

でしょう。


主は、私たちの弱さを通して完全な力を現し、栄光を現されていくのですから、弱さや欠けを

嘆いたり、人と比較することなく、主にゆだね感謝し従って行くのです。

 

8月24日(日)ルカの福音書 11章5~13節

イエス様がある所で祈っておられ、祈りが終わると、弟子の一人が「私たちにも

祈りを教えてください。」と言ったのです。


5節からは、パンのたとえをもって、あくまで頼み続くならば、父なる神は必ず

祈りに答えてくださると教えられたのです。

また、ルカの福音書18章では、貧しいやもめと不正な裁判官のたとえをもって、

いつでも祈るべきであり、失望せず、諦めることなく、祈り続けることを教えています。

パンのたとえでは、友人が旅の途中で寄ってくれたのですが、お腹を空かしており

疲れていましたから、何か食べさせてあげたいと思っても、家には何もなかったのです。

家の主人は、近くの友人の所へ行って、真夜中にもかかわらず、戸をドンドン叩いて

大きな声で、「君、パンを3つ貸してくれ」と頼んだのです。

友人は、「すでに寝てしまったし、子供たちも寝ているので面倒をかけないでくれ。」と

答えるのです。

しかし、イエス様は「あくまで頼み続けるならば、必要なものを与えられると」と語られ

たのです。

どの、たとえも極端に思われますが、神様のみ前に祈る時は、しつこく大胆に求めていいのです。 

そして、イエス様は、継続して祈り続け、捜し続け、叩き続けて、与えられるまで祈り求めな

さいと、教えられたのです。



8月17日(日)ヨハネの福音書 21章1~14節

この聖書箇所は、イエス様がガリラヤで宣教を始められ、弟子たちを集められましたが、

その、3日目になされたカナでの婚礼で、水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを

行い、ご自分の栄光を現されたところです。

ガリラヤのカナで婚礼があり、母マリヤやイエス様、弟子たちも招かれていたのです。

マリヤの親戚筋の婚礼と言われており、マリヤは賄いを任せられていたようですが、

このとき、婚礼でなくてはならないものであり喜びの象徴である「ぶどう酒」が無く

なってしまったのです。

婚礼を祝福しようとしてたくさんの人々がやってきましたので、余裕をもって備えていた

「ぶどう酒」が底をついてしまったのです。

マリヤは、この問題を他の人に相談することなく、直ぐにイエス様のところに助けを求めに

行ったのです。

マリヤは、手伝いの人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と

言ったのです。

イエス様は、彼らに「水がめ水を満たしなさい。」と言われ、6つの水がめの縁までいっぱいに

なったとき「さあ、今汲みなさい。宴会の世話役のところに持って行きなさい。」持っていった水

が最上の「ぶどう酒に」変わっていたのです。

手伝いの人たちは、水であったことを知っているのです。それが最上のぶどう酒に変わる奇跡を

体験したのです。

主が語られたことばに信頼し、従うとき神のわざと栄光を見ていくのです。

 
 8月10日(日)詩篇 103篇1~5節

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名を

ほめたたえよ。」、ダビデは、心から主を愛し、全身全霊をもって、主をほめたたえ

賛美したのです。

神の箱を、ダビデの町に運び入れるとき、タンバリンや、笛や緒琴で奏楽させ、自分は

力いっぱい主を礼拝し、踊ったのです。

神様は、私たちが、霊と真を持って賛美し礼拝されることを望み、それを喜んでくださるのです。

ですから、心から主のみ前に出て、手を挙げ主の聖なる御名を賛美し、ほめたたえていきましょう。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」、

主は、私たちに最善なものを用意し、最善の解決を与えてくださるお方なのです。


ですから、いつも主に感謝し、いつも主を喜び、絶えず主に祈りつつ従って行きましょう。

主は、私たちのすべての咎を赦し、私たちの病をいやし、私たちを滅びの穴から救い出して

くださるのです。


そして、尽きることのない、主の恵みとあわれみとで、私たちの一生を良いもので満たして

くださるのです。


その主に、どこまでも信頼し、主に頼り、聞き従って信仰の歩みをしていきましょう。

 
8月3日(日)ヨハネの福音書 21章1~14節

イエス様が、私たちの罪のために身代わりとなって下さり、十字架で苦しまれ死なれ、

墓に葬られたのです。

しかし、イエス様は死の力に打ち勝たられて、3日目によみがえられて、ご自身の姿を

弟子たちの前に現わされたのです。

この後、弟子たちは故郷のガリラヤに帰っていたのですが、イエス様が目に見えない状況

の中で、何をして良いのか分からない、実際的にも食べる物にも困窮したのかもしれませんが、

得意の漁に出て魚を取ろうとしたのです。

彼らは、ガリラヤ湖の漁師ですから、ガリラヤ湖のことや漁にかけては、ベテランのプロの

漁師だったのです。

彼らは準備して期待して、舟に乗り込み漁を始めたのですが、どこに網をおろしても、何度も

網をおろして一晩中働きましたが、何も取れなかったのです。

夜が明けそめたとき、イエス様が岸辺に立たれ、弟子たちに「舟の右側に網をおろしなさい。

そうすれば、とれます。」と声をかけられたのです。

弟子たちは、失望落胆し、疲労困憊の中でしたが、イエス様の語られたことばに立ち網をおろした

ところ、おびただしい魚が入り網を引き上げることができなかったのです。

弟子たちが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見たのです。

イエス様は、弟子たちが一晩中働いて疲れていること、空腹であることをご存知で、弟子たちの

ために必要なものを備えてくださっていたのです。

イエス様は、私たちに必要なことを知っておられ、最善をして下さるお方なのです。

ですから、イエス様から目を離さず、み声に聞き従っていきましょう。

 

7月27日(日)詩篇 124篇6~8節

「私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは

助け出された。」とありますが、この世はサタンの支配下にあり、様々なことが見え、

聞こえてきますし、悪いと思われることも起きるのです。

Ⅰペテロの手紙には「身を慎み、目をさましていなさい。あなたの敵である悪魔が、

ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ですから、注意深く見分けてみこころの歩みをしていく必要があります。

しかし、どのような状況にあっても、神様は、私たちを決して見捨てるようなことを

なさいませんし、全知全能をもって私たちを助けてくださるお方なのです。

「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」とありますが、私たちの助け主は、

天地を創造され、自然界のすべてを支配しておられ、歴史をも作られる神なのです。

ですから、折りにかなって神様のみ前に出て、心を注いで神様に祈り、助けを求めるのです。

神様は、最善の時に最善の方法を持って、私たちに必要な助けを与え、必要なすべてを

満たしてくださるのです。



7月20日(日)テサロニケ人への手紙 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」の

聖句ですが、これは、神様が私たちに命じているのです。

しかし、いつも喜んでばかり居られない状況が、許されることが多いのですが、私たち

クリスチャンの信仰の立上げのために、あえて、神様が試練を許されるのです。

私たちの感情や思索では受け取れないようなことであっても、私たちが神様の語って

いるように信仰の対応である、喜び、感謝し、祈り、告白をしていくならば、神様が御手

を動かしてくださり、圧倒的な逆転の勝利を見るようになっていくのです。

しかし、つぶやいたり、怒ったり、不平不満の不信仰の対応をするならば、神様が働くこと

ができず、問題の解決も勝利も見ることがないのです。

ヤコブの手紙には「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、この上もない喜びと思い

なさい。」とあるように、試練はこの上もない喜びと祝福の基ですので、試練に沈むことなく、

喜び、感謝し、賛美し、祈っていきましょう。

神様は、全能のお方ですから、私たちに最善を用意してくださり、問題の後ろにある素晴

らしい神様のご計画が現されてくるのです。

ですから、どんな状況の中であっても、信仰の対応をしていきましょう。

必ず、主にある最善の結果が現わされるのです。



7月13日(日)ヨハネの黙示録 13章11~18節

「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上ってきた。それには小羊のような二本の

角があり、竜のようにものを言った。」とありますが、この獣は小羊イエス様に似た

ような者であり、16章以降に出てくる「にせ預言者」だと言われています。

彼は、大きな組織の指導者であり、宗教的な指導者とも言われています。

「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。」とある、

最初の獣は十本の角と七つの頭があり、その頭には神をけがす名があったのです。

「竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」とありますが、竜はサタン

であり、最初の獣はサタンから大きな力を受けて、クリスチャンたちや獣や像を拝まない

者を殺させるのです。

最初の獣は、大きな権力を与えられて患難時代に真のクリスチャンたちを迫害する

反キリストであり、政治的な指導者なのです。

これから、イエス様が終わりの時代には困難がやってくると言われたように、多くの問題や

困難が許されますが、私たちは堅く信仰に立って、目を覚まして主に最後まで従って行くのです。

主の再臨が近づいているのですから、それに備えて日々、主の語られることに聞いて従い、

みこころを行っていきましょう。

 

7月6日(日)ピリピ人への手紙 4章6~7節

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とありますが、私たちは、見える

こと聞こえることによって、心配したり、悩んだり、恐れたりして思い煩いやすいのです。

しかし、聖書では、神様がともにおられ最善をしてくださるので、大丈夫なんだ、だから

心配したり思い煩わなくて良いと語っているのです。

そして、あらゆる場合に、感謝し祈り信仰の対応をしていくように、勧めています。

あらゆる場合ですから、いつでも、どんな時でも、どんな場所でも感謝するように語って

いるのです。


テサロニケ人への手紙で、主は、すべての事について感謝しなさいと、私たちに命じて

いるのです。

ですから、感情や思索では受け取れないようなことが許されたとしても、私たちは信仰で、

感謝すること、喜ぶこと、賛美すること、祈ること、告白することによって信仰を選びとる

なら、主の手を見るようになるのです。

そして、主によって逆転の勝利を見ていくのです。 



6月29日(日)マルコの福音書 10章46~52節

イエス様は、エリコを通り、十字架に掛かられるためにエルサレムへ行こうとされていたのです。

エリコは、交通の要衝であり、肥沃な土地で農産物も豊富に収穫され、泉から良い水も湧き出し

ていました。

ですから、最古の町と言われているように古くから繁栄した町であり、イエス様の時代は、ローマが

支配をしていたのです。

イエス様は、この町で取税人の頭であるザアカイを見つけ出し、罪人であるザアカイの家に泊まられ、

ザアカイは悔い改めて救われたのです。

イエス様は、どんな人であっても決して人を分け隔てせず、一人ひとりを愛し、最善を成されるお方

なのです。

イエス様が、町を出ようとしていたとき、盲人で物乞いをして生活しているバルテマイが、イエス様が

お通りになると聞いて、大きな声で「私を哀れんでください」と叫び続けたのです。

人々は、彼を黙らせようとしてたしなめたのですが、ますます、大きな声で「私を哀れんでください。」と、

熱心に求め続けたのです。

イエス様は、彼の声を聞いて、彼を呼び「わたしに何をして欲しいのか」と語られたのです。

盲人は「目が見えることです」と具体的に真実に、目をいやしてくださるように願ったのです。

直ぐに盲人は目が見えるようになり、イエス様に従ったのです。

イエス様は、私たちに「何をして欲しいのか」聞いておられるのですから、大胆に具体的に求めていくのです。

 

6月22日(日)ピリピ人への手紙 4章4~7節

ピリピ人への手紙は、使徒パウロから、ピリピの教会に宛てた手紙で、「いつも

主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と語っているように、

喜ぶことを命じておられます。

ですから、喜びの書簡といわれています。

主は、私たちに喜ぶことを命じておられますが、実際の生活において、いつも喜べ

ない状況というのは、多くあることでしょう。


 喜べない状況の中にあっても、主は私たちに信仰によって喜ぶように勧めていますし、

ネヘミヤ記にあるように「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」と言われて

いるように、主にあって主を喜ぶことは、私たちに力を与え、勇気を与え、試練や問題に

対して信仰によって、勝利していくことができるのです。

しかし、神のことばに立たず、自分のうちにある感情や思索に振り回されと、益々泥沼に

はまりこんでしまうのです。

ですから、主に信頼し、神のことばに立って、信仰の対応である主にあって喜ぶことを選び

取っていくことが重要です。

6節には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いに

よって」とあるように、思い煩ったり、心配したり、恐れたりすることなく、主に信頼し

感謝し、祈りなさいと勧めています。

困難が許されたとしても、感謝し、主に従うならすべてが益になるのですから、信仰の対応

をしていくなら逆転の勝利を見ていくのです。


6月15日(日)コリント人への手紙 第一 4章16~18節

イエス様は、神の御子であられましたが、私たちの罪を取り除かれるために、この地上に

人となって来られたのです。

イエス様は、何一つ罪を犯されませんでしたが、私たち罪人のために身代わりとなられて罪を

負われ、十字架の苦しみを味わられ死なれ、墓に葬られたのでした。

そして、3日目によみがえられ、40日のあいだ弟子たちにご自身を現された後、昇天されて

神の右に着座され、今も生きて働いておられるのです。

そのイエス様が、再び地上に来られますが、これを再臨といいます。

聖書には、テサロニケ人への手紙にある空中再臨と、ゼカリヤ書にある地上再臨とがあるのです。

今回は、空中再臨について見ていきますが、「主は、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から

下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている

私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」と

あるように、空中再臨と空中携挙が起こるのです。

それは、黙示録10章にあるように、「第7の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響く

その日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」

とあるように、大患難前の直前に起きるのです。

ですから、私たちは、いつ主が地上に来られていても良いように、携挙にあずかれるように、

絶えず目をさまして主を待ち望み、主のみ声に従いみこころを成していく必要があります。

 



6月8日(日)使徒の働き 2章1~12節

五旬節の日になって、皆が一つところに集まって祈っていたのです。

五旬節の日は、イスラエルでは初穂の祭り、刈り入れの祭り、七週の祭りと呼ばれ、

過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りと並んで、三大祭りの一つです。

ギリシャ語ではペンテコステと呼ばれ、50番目という意味があり、過ぎ越しの日から

数えて50日目になります。

すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き

渡ったのです。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまったのです。

これは、父なる神がイエス様を通して約束されたように、天から聖霊様が降られて一人ひとり

に臨まれたのです。


それまでは、聖霊様はダビデのような王や、イザヤやサムエルたち預言者におられましたが、

聖霊様が降臨され、イエス・キリストを信じる人々のうちに、内住されるようになったのです。

このときから、聖霊時代、教会時代がスタートをした、非常に重要な日となりましたし、みなが

聖霊様に満たされ、賜物の働きが現されていったのです。

彼らは、御霊が話させてくださるとおりに他国のことばで話しだしましたが、これは賜物の異言で

あったと言われています。

また、ペテロのメッセージを通して、3000人の人々がイエス様を信じ救われましたし、弟子たちを

通して、いやしや奇蹟の働き、不思議としるしの伴う働きが起き、初めの雨と呼ばれるリバイバルの

働きが現されたのです。



6月1日(日)エレミヤ書 29章10~14節

預言者エレミヤの時代は、イスラエルが神様に反逆して背信の罪を犯し続けていましたので、

神様は、イスラエルに裁きをされようとしている困難のなかで、彼は、神のことばを語り続け、

涙の預言者と言われています。

エルサルムは、敵のバビロンによって包囲され、飢餓状態になり城壁は破られ、多くの人々は

殺害され、神殿や宮殿、民の家々、そして、城壁は完全に破壊されてしまったのです。

残った人々は、捕囚として敵の地であるカルデヤの地に引かれて行って、そこで、非常な困難な

生活を強いられたのです。

しかし、神様はエレミヤを通して、70年間バビロンの地にとどまり、そこで、家族を作り生活し、

増え続けなさいと命じられたのです。

イスラエルの民が、バビロンに引かれて行かれたのは、神様の御計画があったのです。

それは、偶像礼拝という背信の罪から離れ、まことの生ける神であるイスラエルの神に、主の名を

呼び求め祈り求めさせるためだったのです。

あえて、困難や試練が許されますが、しかし、それは、わざわいを与える計画ではなく、平安と希望と

将来を与える計画なのです。

イスラエルの人々には、敵の地で捕囚として生活することは、わざわいとしか思えなかったのですが、

神様のご計画は、敵の地でイスラエルの神に、真に立ち返らせるためだったのです。



5月25日(日)ルカの福音書 18章1~8節

イエス様は、祈りの人でしたから、よく、お一人で寂しい所に退かれ祈られましたし、

山に登って祈られたのです。

また、十字架を前にゲッセマネで祈られたときは、汗が血のしずくのように地に

落ちたとありますように深い祈りをし、父なる神との交わりを強めていかれたのです。

この聖書箇所では、イエス様が、いつでも祈るべきであり、失望することなく祈り求め

続けるために、やもめと不正な裁判官とのたとえを持って、話されたのです。

ある町に、貧しいやもめが生活していましたが、他の人から訴えられて困っていたのです。

仕方なく裁判官のところに行って、相手を裁いてくださいと願ったのですが、裁判官は

相手もせず追い払ったのです。

この裁判官は、神を恐れず、人を人とも思わない、とんでもない裁判官でしたから、何度

行っても同じような状況でした。


しかし、やもめは諦めることなく、ひっきりなしに裁判官のところにやってきては、頼み

込んだのです。

さすがの裁判官も、あまりにもうるさくやってくるので、裁判を開くのです。

不正な裁判官でさえ、熱心に諦めることなく頼み続けるなら、願いを聞いてくれるなら、なおさら、

正しい神様は、私たちの祈りを聞いて下さり、最善を用意してくださらないはずはないのです。

 

5月18日(日)ルカの福音書 15章11~24節

この聖書箇所は、イエス様が語られた「放蕩むすこ」の、たとえです。

ある人に、二人の息子がいて、弟が父親に「お父さん。私に財産の分け前を下さい」と言って、

財産を要求したのです。

財産の分与は、父親が亡くなってから遺産として分けられるので、父親が生きていますので、

財産を受ける資格はなかったのです。

父親は気前が良い人でしたので、財産を二人に分けて与えたのですが、弟は幾日も経たないうちに、

何もかもまとめて遠い国に旅立ってしまうのです。

噂に聞いていて、あこがれていた国に着くと、お金を湯水のように使って遊び回っていたのです。

莫大な財産を使い果たした後、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めたのですが、

誰も彼に食べるものを与えなかったのです。

ある人が、彼を豚の世話をさせたのですが、十分な食べ物も与えられず、豚の食べるイナゴ豆で

腹を満たしたいほどでした。

彼は、ふと我に返って、ここにいたら飢え死にしそうだ、父親のところに行けばパンが有り余るほど

あるではないかと思い、悔い改めて父親の住む故郷へ帰っていくのです。

父親は、いつ弟息子が帰ってくるかと待ちわびていましたから、遠くに弟息子の姿を見つけると、

走り寄って息子を抱きしめ、口づけをするのです。

私たちは、弟息子のように罪人ですが、しかし、悔い改めて父なる神のもとに帰るなら、神は私たちを

赦し祝福してくださるのです。


5月11日(日)ヨハネの福音書 6章1~14節

イエス様は、ペテロとヤコブその兄弟のヨハネだけを連れて、高い山に導いていかれたのです。

高い山とは、色々な説がありますが、有力なのはイスラエルで最も高いヘルモン山であると、

考えられています。

変貌山とも言われていますが、ここで、イエス様はモーセとエリヤと話し合ったのですが、

エルサレムで遂げようとしておられるご最後について語られたのです。

一行が山から降りてくると、大ぜいの人の群れがイエス様を迎えたのですが、一人の人が病気の

息子のいやしを求めたのです。

弟子たちが、息子のためにいやしの祈りをしたのですが、いやされなかったので、イエス様に息子

のいやしを求めたのです。

イエス様が、悪霊をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子は治ったのです。

イエス様は、「からし種ほどの信仰があれば、どんなことでも、あなたがたにできないことはない。」

と語られたのです。

私たちが、信じる信仰によってみこころを行うなら、私たちには、どんなことでもできないことはないと

言われたのです。

ですから、信仰を用いて従うなら、素晴らしい神の勝利と祝福の恵みに預かることになるのです。

 

5月4日(日)ヨハネの福音書 6章1~14節

この聖書箇所は、5千人の給食の奇蹟のことが書かれており、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの

4福音書に記述があります。

ですから、弟子たちやイスラエルの人々は、イエス様のなさったしるしを見て、いかに強烈な印象を

持ったかがわかります。

イエス様は、ガリラヤを中心に宣教の働きをされており、貧しい人たちには神のことばをもって福音を

語り、病気の人々をいやし、悪霊に支配されている人たちを開放し、勝利を与えられたのです。

この日も、イエス様の周りには多くの人々が集まり、ずっと神のことばによって励まし、勇気を与えられ、

希望を与えられたのです。

人々は熱心にイエス様の語られることを聞き、時間を忘れ、喜びに満たされていきましたから、気が

つくと夕方になっていたのです。

イエス様は、弟子たちに信仰の挑戦を与えられたのですが、誰も理解できませんでした。

アンデレが、少年が持っていた弁当の五つのパンと小さい魚を2匹、イエス様のところに持ってきたのです。

イエス様は、人々を座らせ食事の用意をさせて手にあるものを感謝し、人々にほしいだけ分けられたのです。

ここから奇蹟が起こり、男だけで5千人ですから、女や子供たちを入れると数万人がいたのでしょう。

すべての人が、食べて満腹したのです。

私たちの手にあるものは、それが何になりましょうと思うものであっても、イエス様のところに持って行って、

イエス様に用いていただくならば、大いなる奇蹟とわざと勝利を見ていくのです。



4月27日(日)テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」とありますが、

いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝しなさいと、主が命じておられるのです。

そして、三つのみことばは、それぞれに関わっており、感謝しつつ祈り喜ぶのです。

また、喜ぶことは感謝を踏み込んだことだと言われていますし、「いつも主にあって喜びなさい。

もう一度言います。喜びなさい。」今年度、主から与えられた教会全体のみことばなのです。

ですから、今年度は様々な試練や問題や困難も許されてくるでしょうから、信仰の対応である、喜ぶこと、

祈ること、感謝することを徹底していく必要があります。

すべての事に感謝しなさいと語られていますが、良い事についても悪いと思われることにも、感謝する

ように命じられているのです。

そして、感謝して主に従えば、問題の後ろにある素晴らしい主のご計画が現されてくるのです。

ですから、信仰の対応を成しつつ、主の語られることに注意深く聞き、主のみ声に聞き従っていきましょう。

必ず、主の勝利と栄光に預かっていくのです。

 

4月20日(日)ルカの福音書 24章1~11節

アリマタヤのヨセフやニコデモたちは、総督ピラトに願い出て、イエス様を十字架から

取り下ろし、没薬やアロエを混ぜたものを体に塗り、亜麻布で巻いて墓に納めたのです。

イエス様を愛し従ってきた女たちは、安息日の始まるわずかな時間をさいて、イエス様に

塗る香料を買い、週の初めの朝、暗いうちに起き出して日の昇る頃には、墓に着いたのです。

墓の入口には石が立てかけてあったのですが、彼女たちが着いた時には石が取りのけて

ありました。

石という問題があったにもかかわらず、彼女たちは、イエス様を愛するがゆえに信仰の

踏み出しをして行ったときに、すでに石がなかったのです。

墓に入ると、イエス様の身体が見当たらず、途方にくれていると、御使いが現れ、

イエス様がよみがえられましたので、ここにはおられませんと、語ったのです。

イエス様は、よみがえられて死に打ち勝たれ、今も生きて働かれ、私たちに最善を

してくださっているのです。

そして、私たち罪人のために、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての罪が

赦され、救いの道を開いてくださり、永遠の命が与えられたのです。


4月13日(日) 詩篇 105篇16~21節

ヨセフは17歳の時、主から夢を通して、兄弟たちからお辞儀をされるまでに偉くなると語られたのです。

ヨセフは、ヤコブが年をとってから与えられましたから、父のヤコブから、ことのほか愛され特別な着物

まで着せられていたのです。ですから、ほかの兄弟たちは面白いはずがなく、ヨセフを妬み憎んだのです。

ヨセフは、自分の見た夢を兄弟たちに話すのですが、自分の束は真っ直ぐに立ち、ほかの束はお辞儀をして

いるというのです。

兄弟たちは、ますますヨセフを憎むようになっていきますし、ヨセフの高慢な態度に腹を立て、仕返しをして

やろうと思っていたのです。兄弟たちは羊の世話をするために、エフライムの山地を移動していたのですが、

ヤコブはヨセフを使いにやるのです。

兄弟たちは、ヨセフを殺そうと相談するのですが、通りかかったミデヤン人の隊商に、ヨセフを奴隷として

売り飛ばしてしまうのです。

 ヨセフにとって奴隷としての生活は、過酷極まるものだったのですが、苦しみと孤独の中で、イスラエルの

神様と真実に交わり、知恵を受け、力を受け、希望を見出していくのです。主は、ヨセフと共にいましたから、

ヨセフのすることを祝福されましたので、主人から信頼されるようになっていくのです。

ところが、主人の奥さんから無実の罪で訴えられて、監獄に入れられ足かせまで掛けられてしまうのです。

しかし、ここでも主が共におられましたから、監獄の長から信頼されて他の囚人たちの面倒を見る役目が

与えられたのです。

ここで、2人の夢の説き明かしをして、その通りのなったのですが、なお2年間監獄で囚人として過ごさ

なければならなかったのです。

エジプトの王が不思議な夢を見るのですが、だれも説き明かす者がいなかったのですが、ヨセフが呼び出され、

夢の解き明かしをし対策も語るのです。

ヨセフは、王に次ぐ地位が与えられ、兄弟たちがエジプトに食糧を買いに来た時、兄弟たちはヨセフとは知り

ませんでしたから、ヨセフにお辞儀をするのです。主が語られてから試しが許されましたが、主のことばが

その通りになっていくのです。



4月6日(日) ローマ人への手紙 8章28節
             テサロニケ人への手紙 第一 5章18節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを

働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 とありますが、神を愛し従う者の

ためには、神様がすべてのことを働かせて最善をなしてくださるのです。

神様は、私たちの信仰を立て上げるために、あえて、問題や困難、試練や試しを置かれるのです。

しかし、このみことばに立つならマイナスと思われることであっても、神様がいるから大丈夫、

神様が益としてくださるところに立って、信仰の歩みをしていく必要があります。

 「すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んで

おられることです。」とあるように、すべてですから、良いと思われること、悪いと思われることに

ついても感謝しなさいと、神様が私たちに命じておられるのです。

ですから、悪いと思われることに対しても、信仰の対応である感謝し喜び、賛美し祈るならば、悪いと

思われることの後ろにある素晴らしい神様のご計画が現されてくるのです。

ここで重要なことは、どのような状況の中であっても、神様に信頼し、神様を愛し従い、信仰の対応を

していくことなのです。

その時、すべてが益となり、神の勝利を見、栄光を見ていくのです。



3月30日(日) ヤコブの手紙 1章1~4節

ヤコブはイエス様の兄弟でしたが、イエス様が公生涯に入られて、イスラエルの各地を回って

宣教の働きをしていても、イエス様がメシア救い主ということを信じていませんでした。

イエス様が私たちの罪の贖いの代価として、私たちの罪の身代わりとなって十字架が死なれ、

墓に葬られ3日目によみがえられて、ヤコブに現れてくださって、イエス様がメシアであり

救い主であることを知り、信じ救われてエルサレム教会で、重要な働きにつくようになったのです。

ヤコブは、国外に散っているユダヤ人クリスチャンたちが迫害の中にいることを知って、彼らを

励ますために手紙を書いたのです。

1節に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

とありますが、試練や困難を最上のものとして受け取り、この上もないこととして、喜ぶことを

勧めています。

これは、感情や思索では受け取れない状況があったとしても、信仰によって喜ぶことを選び取り、

信仰の対応をしていくように語っています。

 へブル書では、主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、ムチを加えるからである。

とあるので、主はあえて、試練や困難が赦されるのです。

しかし、試練や困難は私たちの信仰の盾上げのためであり、それによって、私たちを練り清め、

揺るぎなく堅く信仰に立つ者として下さるのです。

 

3月23日(日) 使徒の働き 16章19~33節

パウロとシラスは、聖霊に導かれトロアスまで行きましたが、ある夜、幻で「マケドニアに渡って

きて私たちを助けてください。」と懇願され、主からきたものと確認、確信し、船でマケドニアへ

渡るのですが、主が導かれて、初めてユーロッパに福音が伝えられる重要な働きであり、

出来事だったのです。

パウロは、主からの語りかけを受けて、確認してから、ことばに従って進んで行き、ピリピに着い

たのです。

祈り場で福音を語ったとき、聞いていた紫商人のルデヤが心開き、イエス様を信じて救われ、

家族も救われたのです。

主に従って進んでいくとき、主が用意しておられる計画があり、働きがあるのです。

次に、占いの霊に取り憑かれた若い女奴隷に出会うのですが、この霊に向かって「イエス・キリストの

御名によって命じる。この女から出て行け」命じると、即座に霊が出て行って、この女は解放され、

イエス様を信じ救われたのです。

ところが、女奴隷の主人たちは、自分たちが儲ける望みが無くなったので、パウロとシラス訴えて

役人に引き渡してしまうのです。

役人たちは、パウロたちを散々ムチで打たせてから、牢に入れ足には足枷をかけたのです。

痛みと苦しみの中にあったパウロたちは、怒るのでもなく、呪うのでもなく、感謝の祈りをし、

賛美をしていたのです。

きっと、上手な賛美ではありませんでしたが、臨在の賛美が牢屋全体を覆い、

真夜中にもかかわらず、囚人たちも聞き入っていたのです。

この後、奇蹟が起こり、牢の扉と鎖がすべて解けてしまい、看守と家族全員がイエス様を信じて

救われたのです。

主のみ声に聞き従い、信仰のあゆみ、信仰の対応をしていくときに、主の計画が現され、実現して

行くのです。



3月16日(日) ルカの福音書 7章1~10節

この聖書箇所は、イエス様が二人の信仰をほめられましたが、そのうちの一人である百人隊長に

ついての、信仰のことが書かれています。

百人隊長が、重んじている一人のしもべが重い病気にかかって死にそうになっていたのです。

イエス様が、カペナウムに入られたことを知った百人隊長は、どうしてもイエス様にしもべ

をいやしていただきたいと願い、ユダヤ人の長老たちに依頼して、来て下されように頼んだのです。

それを聞かれたイエス様は、早速百人隊長の家に向かうのですが、百人隊長は友人たちを使えに

出して「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、

私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ず

いやされます。」と伝えたのです。

百人隊長のへりくだりと、神のことばの権威、神のことばに対する信仰と信頼を見ることが

できるのです。

主からことばが与えられたらば、必ずいやされるという堅い信仰をもっていたのですが、

彼の信仰のとおりにしもべはいやされたのです。

私たちが、真に希望が与えられるのは神のことばであり、神が語られるのであれば、それは、

必ず成就するのです。

日々の歩みの中で主と真に交わり、神の語られることばに注意深く聞いていきましょう。

主は、一人ひとりに必要なことばをもって、私たちを導かれていくのです。



3月9日(日) イザヤ書 55章8~13節

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道より高く、わたしの思いは、

あなたがたの思いより高い。」とありますが、神様の道、思いとは、神様のご計画のことを

示しています。

神様のご計画は人知をはるかに超えて高く、広く、深いものなのですから、

私たちはへりくだって神様の前に出、深い交わりの中で、神様のご計画を聞いていく必要が

あります。

そして、語られたことには忠実に従い、神様のみこころを全うしていかなければなりません。

私たちが、神様に従うなら、神様のご計画が豊かに現されて行くのです。

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては

来ない。

必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とありますが、

神様が語られた

ことばは、必ず成就するのです。

ですから、神様の語られることばを注意深く聞いていくのです。

神様は、私たちに聖書のみことばを通して、思いのうちに、語ってこられますので、聖書を読み、

祈り、
毎日のデボーションをしっかり守って交わりを持っていきましょう。

語られたと思ったことは必ず吟味して、神様から来たことばを握って、信仰の踏み出しをして

いくのです。

神様の時がありますから、忍耐を持って諦めずに信仰の歩みをしていくなら、神様のことばの

確かさを体験していくのです。



3月2日(日) 士師記 6章11~16節

ギデオンは、イスラエルの中でも小さなマナセ部族に属し、臆病で小心な若者でした。

イスラエルは、主の前に背信の罪を犯しましたから、主は、イスラエルをミデヤン人の

手に7年間も渡しましたから、イスラエルは困窮し苦しんだのです。

彼らは、悔い改めて、主に助けを叫び求めたのです。

そんな時に、ミデヤン人を恐れて酒ぶねの中に隠れて小麦を打っていたギデオンのところに、

主の御使いが現れたのです。

そして、ギデオンに「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」と語ったのです。

次に「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。私があなたを遣わす

のではないか。」と、使命を与えたのです。

ギデオンは、いくつかの確認をして、主からのもととして受け取り、信仰に立ち、主に従ったのです。

敵の大軍は13万5千人でしたが、イスラエルは戦いの用意のできた、わずか300人で戦いに出て

行きましたが、主が戦われ、圧倒的な勝利を現されて栄光を現されたのです。

私たちに力がなかったとしても、主に聞き従うなら、主が共におられ、主が働きをなされ圧倒的な

勝利を見ていくのです。


2月23日(日) ローマ人への手紙 4章19~27節

ローマ人への手紙は、パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙で、主題は信仰義認です。

私たちの行いによるのではなく、イエスキリストを信じる信仰によって、神様によって

私たちは義とされたのです。

それは、恵みによって、イエスキリストの贖いによって、価なしに、イエスキリストの

支払われた代価によって義とされたのです。

私たちの神様は、天地を創造され、歴史を作られ、すべてを支配されておられ、全知全能の

お方なのです。

アブラハムは、望みえないときに望みを抱いて神を信じ、神の語られたことばを信じ従った

のです。

あなたの子孫は、海辺の砂のように、空の星のように、地のちりのようになると言われた

神の約束を信じ、状況は全くの絶望の中にあっても、信仰は弱まらなかったのです。

アブラハムが100歳、妻のサラが90歳になった時に、神は語られたとおりに、

約束の子イサクを与えられたのです。

アブラハムは、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じて、待ち

望んだのです。

確かに試しが許されますが、語られた神のことばは成就するのですから、信仰の対応を

しつつ、待ち望んでいきましょう。

2月16日(日) ダニエル書 6章19~27節

ダニエルは、イスラエルのユダ族の出で貴族の子供でしたが、バビロンの王

ネブカデネザルによってエルサレムが占領された時、捕囚としてバビロンへ

連れて行かれたのです。

イスラエルの少年たちの中から選ばれたダニエルたちは、身に何の欠陥もなく、

容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深い少年たちだったのです。

また、ダニエルは、すべての幻と夢を解き明かす賜物が与えられていましたから、

ネブカデネザル、ダリヨス、クロス王に仕えたのです。

ダリヨス王の時代、王は国を統治するために3人の大臣を置いたのですが、

ダニエルは、他の大臣や太守よりも際立って優れていましたから、

彼を任命して全国を治めさせようとしたのです。

妬みに駆られた大臣たちは、ダニエルを失脚させようとするのですが、彼を訴える、

いかなる口実も欠点も見つけることが出来なかったので、悪巧みを計画するのです。

王以外に、いかなる神にも人にも、祈願するものはだれでも、獅子の穴に投げ込む

という禁令を、出させるのです。

ダニエルが、9時、12時、3時に、いつもエルサレムの方角に向かって、

主に祈りをささげているのを、大臣たちは知っていたのです。

王に訴え出て、ダニエルを捕らえさせて、獅子の穴に投げ込ませるのです。

しかし、ダニエルは主に信頼していましたから、獅子によって何の害もうけず、

反対に訴えた者たちは妻子とともに、獅子の穴に投げ込まれ、あっという間に

噛み砕かれてしまったのです。

どんな状況に追い込まれたとしても、主に信頼し従うなら、逆転の圧倒的な

勝利を見ていくのです。


2月16日(日) コロサイ人への手紙 4章2~6節

コロサイの教会は様々な異邦人がいて、特にユダヤ教からの回心者が、割礼問題に誤った教えを

入れよとして、教会が分裂の危機にあったのです。

パウロは、ローマの牢獄から、コロサイの教会にイエス・キリストの奥義について書き送ったのです。

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」とありますが、祈りのことが書かれています。

祈りについては、霊的にも実際的にも目をさまして、熱心に心から絶えず祈ることを命じているのです。

私たちは、諦めることなく、失望することなく、感謝をもって祈り求め続ける必要があります。

真実の祈りは神様に届き、必ず祈りの結果を、祈りの成就を見ていくのです。

パウロは、牢獄に入れられ裁判を待っていましたし、病もあった状況でしたから、自分の問題のために祈って

もらいたいと思ったかもしれません。

しかし、パウロは、神様の働きのためにみこころを語られるように、祈って欲しいと願っていたのです。

私たちは、人に語るとき親切で塩味の聞いた言葉を語り、相手の徳を高めていくとき、心開いて耳を傾けて

宣教の言葉を聞いてくれるのです。


2月2日(日) マルコの福音書 8章34~37節

「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。」とありますが、

これは、弟子だけだはなく、すべてのイエス様を信じる者に語られたことに気づきます。

だれでもイエス・キリストに従っていきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って

わたしについて来なさい。と言われたのです。

イエス様に従っていこうとするとき、自分を持っていては、イエス様に従って行くことが

できないことを、見るのです。

自分でしたいことや、見たいことを優先するならば、どうしても聖書を読んだり祈ったり

することがおろそかになってしまいますし、主との交わりが薄くなってしまって、

主が語られることが聞けなくなったりするのです。

それぞれに、負うべき十字架がありますが、自分の十字架を負い感謝と賛美と喜びに

満たされて、従っていきましょう。

それは、永遠に価値のあるものであり、天国に宝を積むものであり、永遠に残るものなのです。

地上のことだけに目を向け、思い煩うことなく、永遠に価値あるものに目を向け、

神の国と神の義を求めるならば、それに加えてすべてのものが与えられるのを見るでしょうし、

主の勝利を体験していくのです。



1月19日(日) ハガイ書 2章1~9節

預言者ハガイは、ゼカリヤや、学者であり祭司であったエズラとともに、バビロン捕囚から解放された

時代に、神によって立てられた器です。

イスラエルが神に背いたとき、神は彼らをさばいてバビロンへ捕囚として送られましたが、約束の70年が

過ぎた頃、さしものバビロンもメゾペルシャによって滅ぼされて、新しい時代に入っていったのです。

ペルシャは、イスラエルに対して寛大な政策をとって、エルサレムの宮の再建の意思のあるものは、

エルサレムに帰還し、工事を始めるように勅令を出すのです。

これを受けたイスラエルの人々約5万人が帰還し、仮庵の祭りを行い工事に取り掛かり、宮の土台となる

礎を築いたのです。

ところが、イスラエルに残っていたサマリヤ人やアラブ人たちが、工事を止めさせようとして、脅したり、

議官を買収したりし、武力をもって中止させてしまうのです。

イスラエルの人々は宮の工事を止めて、自分たちの家を立て始めましたから、宮はなおざりにされて、

18年が過ぎたのです。

神様は、預言者ハガイやゼカリヤを通して「仕事に取り掛かれ」と語り、再びイスラエルの人々を助けて、

工事を進め完成させるのです。

「権力によらず、能力によらず、神の霊によって」と語られたように、神ご自身によって第2神殿が

完成させられたのです。

 

1月12日(日) 士師記 6章11~16節


士師記の時代は、イスラエルの民が約束のカナンの地に入り定住し始めましたが、全知全能の主を忘れ、

カナンの地の偶像の神々を拝み、背信の罪を犯してしまい、不道徳なことが満ちていくのです。


これに対して、主はイスラエルを敵の手に渡し、裁きをされるのですが、苦しみの中でイスラエルは

主に助けを叫び求めるのです。主は、その声を聞かれ敵の手から彼らを救い出してくださったのですが、

再びイスラエルは主に背いて、偶像のところに行き罪を犯したので、主はイスラエルをミデヤン人の手に

7年間渡したのでした。

人々が主に叫び求めた時、御使いがヨアシュの子ギデオンのところにやってきたのです。

ギデオンは、小心な者であり臆病だったので、ミデヤン人達を恐れて隠れ

酒ぶねの中で小麦を打っていたのです。

主の使いが現れて「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」「あなたのその力で行き、イスラエルを

ミデヤン人から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」と、召しのことばを与えられたのです。

ギデオンは神のことばを受け、信仰によって敵と戦い、圧倒的な勝利を見たのです。

主の召しを受け、従った時に現される主の栄光と勝利は、絶大なものなのです。




1月5日(日) テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」と語っていますが、

神様は、私たちにいつも喜ぶこと、絶えず祈ること すべてについて感謝することを命じているのです。

喜べない状況、感謝できない状況が確かに許されますし、感情では受け取れないことも多いのです。

しかし、私たちの感情や思索で考えるのではなく、神のことばに立ち信仰によって実践していくなら、

神様が働かれ最善の解決を見、神による勝利を体験していくのです。

クリスチャンに許される試練や困難は未信者よりも多いのですが、それは、私たちクリスチャンの

信仰の立上げと、信仰を強めさせるためのものなのです。

ですから、感情では受け取れないことであっても、信仰によって喜ぶこと、祈ること、

感謝することを選び実践することが重要です。

問題や困難の後ろに素晴らしい神様のご計画があり、すべてが益となるというみことばの

約束ありますので、信頼して神様に従い、みことばに従っていきましょう。

素晴らしい神様の、計画の現れを待ち望んでいきましょう。



12月29日(日) イザヤ書 37章10~21節


ユダの王ヒゼキヤの時代、アッシリヤの王セナケリブが、ユダの城壁のある町を攻撃しこれを取ったのです。

そして、アッシリヤの王はラブシャケに大軍をつけ、エルサレムを攻撃するために送ったのです。あと僅か

なところまでアッシリヤ軍が攻めてきて、ユダを滅ぼそうとして、
ユダの人々を脅したのです。

アッシリヤの政策は、攻めとった町の人々を他の異教の地へやって、他の民族をそこへ連れてきて、

反乱が起きないようにしていたのです。

もし、ユダが降伏してアッシリヤの軍門に降れば、ユダの人々は他の地に行って、そこで生活できるのだと

言ったのです。

そして、全知全能の生ける神をそしったのです。

たしかに、アッシリヤに滅ぼされた国々と彼らの神々は、木や金属で作った偶像で、力もなく本当の神では

ありませんから、滅んだのです。

ラブシャケがそしって言った言葉を、ヒゼキヤは主の宮へ行き、神に告げたのです。

神は、ご自身の力を持ってアッシリヤの陣営を打ちましたから、18万5千人が皆、

打ち殺されて残る人はいなかったのです。

アッシリヤの王セナケリブは、偶像の神々を拝んでいたとき、息子達が入ってきて彼を打ち殺したのです。



12月22日(日) ルカの福音書 1章26~38節

御使いガブリエルが、神に遣わされてガリラヤのナザレに住む、名もない乙女マリヤのところに来たのです。

マリヤは、ダビデの家系のヨセフという人の、いいなずけでした。

ガブリエルは、「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」と、

語ったのです。

マリヤは、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と、答えました。

御使いは、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。

それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」と語りました。

いいなずけですから、まだ正式な結婚をしていませんので、もし、妊娠したならば、

人々からどのような目で見られるか、批判されるか分かっていました。

ですから、どんな試練が許されかもしれませんが、マリヤは御使いの語ったことばに信頼したのです。

マリヤは信仰で受け取って「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と、答えたのです。

マリヤは、神に対して絶対的な信頼を持っていた、素晴らしい信仰者だったことがわかります。

また、「神にとって不可能なことは一つもありません。」とあるように、神は、全知全能のお方ですから、

神と神のことばに信頼し従うなら、多くの神の奇跡と勝利を見ていくのです。


12月15日(日)ペテロの手紙 第一 5章6~10節

ペテロは、各地に散って寄留していてる、迫害されているクリスチャンのために励ましの

手紙を書いたのです。

私たちは、全知全能の神様のみ前に、真にへりくだり、従わなくてはなりません。

私たちは聖霊様の助けを受けながら、十戒を中心とした戒めをまもり、畏怖の念を持って、

神様を第一として従っていく必要があります。

その時、私たちは守られ、祝福されていくのです。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた方を心配してくださるからです。」

私たちは、試練や困難に会うと、思い煩ったり、心配したり、恐れたりしてしまうものなのです。

イエス・キリストを信じる者は、神の子どもとしての特権が与えられ、神様の祝福を受ける者として

置かれているのです。

しかし、神様から目を離し、思い煩いに沈んでいくと、ほえたける獅子のように食い尽くすべきものを

捜している、悪魔の餌食になってしまうのです。

ですから、思い煩いを神様に委ね、喜び、賛美、感謝の対応をして信仰の歩みをしていくのです。

神様は、私たちの益のために問題をあえて許されますが、それは、私たちを完全にし、堅く立たせ、

強くし、不動の者としてくださるためなのです。



12月8日(日) ヨハネの福音書 9章1~11節

イエス様と弟子たちが道を通りかかると、生まれつき目の見えない人を見られたのです。

目が全く見えませんでしたから、両親の顔も知らず、読むことも書く事もできない人でした。

それで、仕方なく物乞いをして生計を立てていたのです。

弟子たちはイエス様に質問して「この人が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したのですか。

この人ですか。その両親ですか。」


当時のユダヤでは、重い病気や困難なことが起きると、それは、その人や両親の罪の結果だと

考えていたのです。

イエス様は、これに対して「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

神のわざがこの人に現われるためです。」と、新しい教えを述べられたのです。

問題や困難を通して、神様はわざを現されますし、ご自身の栄光を現されるのです。

ですから、問題や困難に押しつぶされることなく、自分や周りを責めたりせず、

主にある対応を行い信仰の歩みをしていく必要があります。

イエス様は、地面につばきをして、そのつばきで泥を作り、盲人の目に塗ってから、

シロアムの池に行って洗いなさいと言われたのです。

彼は、言われたとおりシロアムの池に行って洗うと、目が見えるようになったのです。

主の語られたことに聞き従うとき、主のわざが現され問題の解決を見ていくのです。




12月1日(日)ヨハネの福音書 2章1~11節

この聖書箇所は、イエス様がガリラヤのカナで、水を最上のぶどう酒に変えるという、

最初のしるしとして奇跡を行われたところです。

イエス様の母マリヤは、親類の婚礼に招かれていて、招待客のもてなしのために働いていました。

イスラエルでは水曜日に結婚式が行われ、祝宴は1週間も続いたそうですが、

イエス様も、弟子たちと共に、この婚礼に招かれていました。
ところが、結婚式の喜びと

祝宴に欠かすことのできない、祝福の象徴というべき、ぶどう酒がなくなってしまったのです。


十分に用意されていたのでしょうが、結婚を祝おうとして多くの知人や友人が、思った以上に

来たのでしょう。


ぶどう酒が途中でなくなってしまうことは、花婿、花嫁、家族、親類にとって、大変な不名誉な

ことになってしまうのです。


母マリヤは、この問題をイエス様のところに持っていって、助けを求めたのです。

イエス様は、手伝いの人たちに、石の水がめに縁いっぱいになるまで、水を満たしなさいと

言われるのです。


手伝いの人たちは、水がめに水を汲んできていれましたが、いっぱいになるとイエス様は

「さあ、今、くみなさい。それを、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と語られたのです。


このとき、水が最上のぶどう酒に変わったのです。

イエス様の語られることに聞き従うとき、神の力と知恵と不思議としるしを体験していくのです。



11月24日(日) ピリピ人への手紙 4章4~7節

ピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中で書いた手紙で、パウロ自身も死の危険が迫っている中で、

迫害下にあったピリピの教会へ宛てた手紙です。

ピリピ人への手紙の主題は、「いつも主にあって喜びなさい」の聖書箇所であり、喜びの書簡とも呼ばれています。

主は、私たちがどのような状況であったとしても、いつも喜ぶように命じているのです。

喜びは、感謝の対応に踏み込んだものでありますから、感謝する心と思いが確実になっていきます。

喜びは、からし種の信仰を働かせるものであり、受けたとして勝利を確信し喜ぶのです。ヨシャパテたちが喜びの声、

賛美の声を上げ始めたとき、主の圧倒的な勝利を見たように、私たちも信仰の対応を通して、主の勝利と栄光を見るのです。

喜びは、私たちが喜ぶことを決心し、喜ぶことを選んで行くときに、受け取れないような状況があったとしても、

信仰によって喜ぶことができるようになるのです。

聖書でも、終わりの時代には困難がやってくると語られているように、多くの試練や問題が許されるでしょうが、

信仰の対応をとっていくなら、必ず主の助けと、勝利を見ていくのです。



11月17日(日) テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

この、みことばは命令形ですから、神様が私たちに命じておられることなのです。

どのような状況の中にあっても主に信頼し、主に従うならすべてが益となる

と言う、神のことばの成就を見ていくのです。

しかし、私たちは、試練や困難の中で心身ともに弱り果てて、不平不満を

語ったり、つぶやいたり、恐れたり、怒ったりの対応をしてしまうものなのです。

感情や思索では受け入れられない事であっても、聖書のみことばは、いつも喜び、

絶えず祈り、すべての事を感謝するように語っているのです。

ですから、感情や思索に支配されることなく、あえて、喜ぶこと、祈ること、

すべての事について感謝することを選び、信仰の対応をしていく必要があります。

信仰を働かせていくなら、必ず主にある解決と最善がなされるのを見るでしょうし、

主による勝利を体験していくのです。

 

11月10日(日) ピリピ人への手紙 4章4節

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

この、みことばは、本年度教会に与えられたみことばです。

ピリピ人への手紙は、パウロがローマの獄中から、迫害下にあったピリピの教会へ送った手紙です。

獄中での生活ですので、厳しい状況に置かれていましたが、彼自身喜びに満たされ、感謝と賛美に

溢れた歩みだったのです。

私たちは、試練や困難が許されることが多いですが、つい思い煩ったり、つぶやいたり、悲しんだり、

不平不満をぶつけたりしてしまうものですが、喜びなさい、感謝しなさいと言っているのです。

私たちの感情や思いでは受け取れないことであっても、主に信頼し、主に委ねて、決心して喜ぶことを

選び取っていくように命じているのです。

私たちに許される試練や問題は、私たちを潔め、私たちを立て上げるために、あえて主が赦しておられることなのです。

ですから、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する、信仰の対応を忘れないでしていきましょう。



11月3日(日) 使徒の働き 2章1~12節

よみがえられたイエス様は、40日の間弟子たちに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、

ご自分が生きていることを示されました。

イエス様は、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。もう間もなく、あなたがたは聖霊の

バプテスマを受けるからです。」「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と、語られたのです。

弟子たちは、このことばを受けて、一つところに集まり、心を合わせて祈りに専念していたのです。

すると、ペンテコステの日に突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡ったのです。

炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまり、彼らは聖霊で満たされたのです。

そして、この時から聖霊時代が始まり、教会時代がスタートしたのです。

人の力ではない、聖霊の働きによって力を受けた人々は、大胆に福音を語り、不思議としるしの伴う賜物の働きが

大きく現されたのです。

現在は、後の雨と呼ばれ、大きなリバイバルが始まってきており、聖霊の力強い福音宣教の働きが起きてきています。

10月27日(日) 創世記 12章1~5節

主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ

行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」

アブラム、後のアブラハムは、75歳の時、神様の声を聞いて、どこへ行くかを知らず、語られたように父の

家を出て、カナンの地へ向かったのです。

アブラムは、ハランの地で生活の基盤ができ、財産もあって安定した生活を送っていたのです。

75歳といえば老境に入り、ゆっくりとした老後を過ごしたと思う年齢ですが、アブラムは神のことばを信じ、

父や家族を置いて出て行ったのです。

彼の、神様に対する信頼、神のことばに忠実に従う信仰によって、神様に導かれるままに、荒野のカナンへ踏み

入って行ったのです。

この信仰を神様が喜ばれ、約束通りアブラムが100歳の時、イサクが与えられ祝福されたのです。

そして、アブラハムは信仰の父と呼ばれ、信仰を通しての多くの祝福を受けたのです。


10月20日(日) テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって

神があなたがたに望んでおられることです。」

この聖書箇所のみことばは、多くのクリスチャンの家庭に掲げられていますし、先日見た映画「少年H」の、

主人公の家にも貼ってありました。

私たちの生活にあっても、いつも喜べないこと、感謝できないことがあり、試練や困難のなかで、思い煩ったり

心配したり、恐れたりしやすいのです。

私たちが、許された状況を自分の判断や感情で捉えていくとき、立てなかったり暗くなったりしてしまうのです。

しかし、みことばは、いつも喜ぶように、絶えず祈るように、すべてに感謝するように命じているのです。

クリスチャンに許される問題や試練は、私たちを整え潔め、そして私たちを立て上げるために与えられるものなのです。

ですから、揺れ動く感情や思索に振り回されることなく、神のことばを受け、堅く信仰に立って、神様に聞き従って

行くのです。


そのとき、問題の後ろにある素晴らしい、素晴らしい神様の御計画が現されてくるのです。

神様のことばに信頼し従い、みこころの信仰の歩みをし対応を取るなら、必ず神様による最善の解決を見、

神による勝利を受けるのです。


10月13日(日) ヨハネの黙示録 3章7~13節

この聖書箇所は、フィラデルフィアにある教会について、書かれたところです。

フィラデルフィア教会は、アジヤにある7つの教会のうちで、唯一、神様からほめられている教会です。

当時のフィラデルフィア教会は、度重なる地震によって、貧しくなっていましたし、小さな教会だったのです。

また、ユダヤ人たちから迫害を受けていたのですが、堅く信仰に立って、神様のことばを守り、神様に従っていたのです。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、

全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」とありますが、全世界に来ようとしている試練とは、

大患難をさします。

つまり、絶えず聖霊に満たされ、与えられた賜物を忠実に用いて、神様のことばに従う者は大患難から守ると言われたのです。

これは、大患難の前に、イエス様が空中再臨される時、携挙されるということを意味しています。

大患難は、反キリストによって、凄まじい迫害が起きると語られており、

クリスチャンは全員が背教か殉教すると言われています。

ですから、教会にしっかりとどまり、忠実に神様のことばに従っていきましょう。



10月6日(日) 詩篇 122篇1~9節

1節に、人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。」

とありますが、主の家とは、神の御臨在される場所を表す所です。

詩篇の作者は、人々に誘われて主の家に行き、礼拝を捧げることのできる恵みを、心から喜んだのです。

今は、キリストの御からだである教会が、そのところです。

私たちも、神の御臨在される教会で、ともに集まり主に賛美を捧げ、霊とまこととを持って、

主を礼拝することを喜びとしています。

教会は、キリストの満ちておられるところですから、キリストの恵みと祝福が満ちているところです。

6節にエルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。」と命じられているように、

エルサレムの平和のためには、祈り続けなければなりません。

イスラエル、エルサレムの歴史は、多くの他民族から侵略され、ユダヤ人たちは散らされて、祖国を失うという

経験をしましたし、黙示録の時代に近づいていて、さらに迫害が強まるでしょう。

ですから、イスラエル、エルサレムが守られるように、イスラエルの人々が救い主イエス・キリストを信じ

救われるように、祈り続けていきましょう。



9月29日(日) マタイの福音書 6章31~34節

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、

などと言って心配するのはやめなさい。」

私たちは罪人ですから、困難や問題、試練に直面すると、心配したり思い煩ったり、恐れてしまうものなのです。

しかし、天の神様は、私たちの必要をすべて知っておられ、すべてを満たす事のできるお方なのです。

ですから、神様にゆだね、信仰の対応をしていかなければなりませんし、

感謝し、悔い改め、祈り、聞き従い、信仰の告白など、信仰の歩みをしていくときに、神様の助けを見るのです。

「だから、神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、

これらのものはすべて与えられます。」

ですから、私たちは、まず神様のみこころを行っていく必要があります。

みこころを行い、信仰の歩みをしていくならば、必ず神様の最善が現され、

祈りの成就を見、さらに優れたものが与えられるのです。

私たちは教会にしっかりつながり、信仰に堅く立って歩んでいくときに、

神様の素晴らしい勝利と栄光を見ていくのです。



9月22日(日) ペテロの手紙 第一 2章6節

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

彼とは、イエス・キリストのことであり、イエス・キリストに信頼し従うならば、決して失望には終わらないのです。

確かに、誰にでも試練や問題は赦されてきますが、それは、私たちクリスチャンの立上げのためであり、

信仰を引き上げるためなのですから、イエスキリストに信頼し最後まで従うのです。

注意しなければならないのは、不信仰の対応は神様の働きを止めてしまいますので、感謝しつつ信仰の対応を

していきましょう。

感謝し信仰の対応をしていくときに、問題の後ろにある素晴らしい神様の御計画が現され、祝福に変わることを

見ていくのです。

ですから、赦される一つ一つのことを丁寧に悔い改め、感謝しつつ、祈り、信仰の告白をしていきましょう。

それは、決して失望に終わらない結果を見ていくのです。



9月15日(日) ルカの福音書 23章39~43節

イエス様は、まったく罪を知らないお方であり、何一つ罪を犯されなかった、義なるお方、聖なるお方、完全なお方な

のです。

祭司長や律法学者、民の指導者らの妬みによって捕らえられ、裁判によって有罪とされ、十字架刑によって死刑にされ

ることになったのです。

イエス様は、散々ムチで打たれ、皮膚は裂け血が飛び散り、深い傷口になられましたが、重いご自身の十字架を負われ

て、痛みとお疲れの身体にもかかわらず、ゴルゴダの丘まで歩かれたのです。 そこで、二人の犯罪人とともに十字架

に架かられたのです。


十字架刑は非常に残酷な刑であり、痛みの極み、苦しみの極みを与え、死ぬまで吊るされるのです。

イエス様は、ご自身を十字架につけた、ローマ総督やローマ兵、罪がないにもかかわらず有罪とした祭司長や律法学者

のために、また、私たち一人一人のために、父なる神に赦しを祈ってくださったのです。

二人の犯罪人のうちの一人は、イエス様の祈りを聞いて、この方は罪のない父なる神のひとり子救い主、

イエス・キリストであることが分かったのです。

彼は、自分の罪を悔い改め、イエス様を信じ救われ永遠の命が与えられ、イエス様とともにパラダイスに行ったのです。

イエス様を信じる信仰によって、すべての罪が赦され、赦されるだけではなく、まったく罪を犯さなかった者として見

てくださるのです。

私たちが救われたのは、恵みによるのです。



9月8日(日) ルカの福音書 18章1~8節

イエス様は、不正な裁判官のたとえをもって、いつでも祈るべきであり、

失望せずに祈り続けることを教えられました。

私たちは祈り始めるのですが、なかなか祈りの答えがないと、諦めてしまって祈りを止めてしまう事があるのです。

ある町に、神を神とも思わず人を人とは思わない、傲慢でふてぶてしい不正な裁判官がいました。

この町に、貧しいやもめが住んでいて、何か不都合なことで訴えられており、このままでは自分が不利益になると思い、

裁判官に「裁判をして、私を助けてください」と、頼みに行くのです。

最初は、気にもとめず門前払いをするのですが、やもめの女がひっきりなしにやってきて、うるさく頼むものですから、

あまりのしつこさに根負けをして裁判をして、相手を裁いたのです。

このように、諦めることなく、失望することなく、祈りが聞かれるまで、あくまで頼み続けるのです。

主は、私たちを祝福しようとしておられますから、みこころならば必ず主の時に、祈りの答えの成就を見るのです。

主の備えられた時が、最善の時なのですから、主の時を待ち望んで祈り続けていきましょう。

 


9月1日(日) ローマ人への手紙 8章28節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として

くださることを、私たちは知っています。」

神を愛する人々とは、神と神のことばを信じ聞き従い、みこころを行おうとする人々のことを指します。

これらの人々のためには、神様がすべてを働かせて、私たちのために益としてくださるのです。

確かに、試練や問題が置かれたりしますが、これは、私たちクリスチャンの整えのため、立て上げのために赦されるのです。

また、問題や試練の後ろには、素晴らしい神様の御計画があるのですから、信仰の対応をしていかなければなりません。

赦される一つ一つのことに、丁寧に祈り、悔い改めることは悔い改め、感謝し、聞き従い、喜んでいくのです。

この信仰の対応を通して、神様が働いて下さり、マイナスと思える事柄が、益となり勝利となっていくのです。

クリスチャンに赦される試練や問題は、問題に終わることなく、必ず主にある解決を見、勝利を見ていくのです。

主に信頼し、最後まで主に従っていきましょう。



8月25日(日) テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスに

あって神があなたがたに望んでおられることです。」いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、すべてのことについて感謝す

ることを、神様が私たちに命じておられるのです。

主を喜ぶことは、あなたがたの力であるからとネヘミヤ記にあるように、喜ぶことによって、霊的な力を受けることが

できるのです。霊的な力は、私たちの信仰の原動力になるのです。

感謝し祈ることは、私たちの信仰を引き上げ、守りにもなっていくのです。

問題や試練が赦されたならば、信仰の対応をしていくときに、問題の後ろにある神様の素晴らしい計画が

現されてくるのです。

しかし、つぶやいたり不平不満の対応では、神様が働くことができませんから、問題のままで勝利を見ない

ことになります。

ですから、主に信頼し、主に依り頼みつつ、賛美の声、感謝の声、喜びの声を上げ続けていきましょう。

必ず、信仰による勝利を体験していくのです。

8月18日(日) 歴代誌 第二 20章12~22節

ユダの王ヨシャパテの時代、アモン人、モアブ人、セイル山の人々が、ユダを滅ぼそうとして攻めてきたのです。

彼らには、敵に立ち向かって行く力はありませんでしたから、絶体絶命の状況に追い込まれてしまったのです。

ユダの人々は、おびただしい敵の大軍の前に、恐れおののき大人も女も子供も皆が集まって、

断食し主に助けを求めたのです。

ときに、レビ人ヤハジエルの上に主の霊が臨み、「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。

気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。

あす、彼らのところへ攻め下れ。」と言う、神のことば預言が語られたのです。

そこで、ユダの人々はひれ伏して主を礼拝し、彼らは翌朝早く、荒野へ出陣して行ったのです。

賛美隊を前面に立て、彼らが感謝し、喜びの声、賛美の声を上げ始めたとき、主は伏兵を設けて戦われ、

敵は互いに滅ぼしあって、誰も生き残るものはなかったのです。

彼らは、1本の投げ槍を使うことなく圧倒的な主の勝利を見、多くの分捕り物を得たのです。

神のことばを受け、信仰の対応をしていくとき、どのように追い込まれた状況であっても、

主にある勝利を体験していくのです。


8月11日(日) マタイの福音書 20章1~16節

イエス様は、天の御国について、ぶどう園の主人に例えて、群衆に話をされたのです。

イスラエルでは、ぶどうの収穫期を迎え、多くの働く人たちを雇って、ぶどうを摘み取ろうとしていたのです。

ぶどう園の主人は人々を雇うために、朝早く市場に出かけ、一日1デナリの約束でぶどう園へ送って働かせたのです。

当時のイスラエルでは、朝6時から夕方の6時まで働きましたから、労働時間は12時間でしたし、賃金は1日働いて

1デナリだったのです。

まだ人手が足りないので、9時、12時、3時に市場に行って、それなりの約束で雇ったのです。

主人が、5時頃市場に行ってみると、まだ、仕事を求めて立っている人たちがいたのです。

働かないと家族に食事を与えられないと思い、あと1時間でも働いて少しでも賃金を得たいと必死だったのでしょうが

、誰も雇ってくれなかったのです。

主人は、ぶどう園に行って働きなさいと雇うのです。

6時になって仕事が終わり、5時に雇われて1時間しか働かなかった人たちに対して、1デナリの賃金が

支払われたのです。

最初から12時間も働いた人達は、もっと賃金をもらえるだろうと期待したのですが、やはり1デナリしか

もらえなかったので、主人に文句を言ったのです。

主人は、最後に来た人たちの思いや願いを知っておられ、受け取る価値のない人たちにも同じように報酬を
  
分け与えてくださったのです。



8月4日(日) ルカの福音書 5章1~11節

イエス様はガリラヤで、宣教を開始され、弟子たちを集め、大宣教命令を語られた場所ですから、

ガリラヤは大変重要なところです。